07/30: ”祈る”という困りごと

宗教と、強迫性障害と、認知行動療法の話。

精神科疾患にも文化差があるというか、例えば強迫性障害に関して言えば、日本では不潔恐怖が多いのに対し、イスラム教圏では圧倒的に「宗教的な冒涜」に関する強迫観念が多いらしい。
想像するに、アッラーのためにささげている儀式の最中に何等か不埒な事を考えてしまったとかなんとか、そんな感じだろうか?
そもそも宗教の“儀式”と強迫の“儀式”とは儀式つながりで親和性がありそうというか、綿密な儀式をこなすためにはむしろ強迫傾向があった方が都合良さそうと思う。

日本人は宗教的には結構いい加減なので、その手の強迫はあまりお目にかからない。
したがって、CBTセンターに宗教に関する強迫の人が来ることは稀である。

そんな折に、宗教的な強迫を持ったクライアントさんがやってきた。あれこれ心理教育して数回ほどでずいぶんマシになったのだけれども、最後に頭の中で行う強迫行為として「祈る」という儀式が残った。
つまり、少し不安な事や心配事、疑念がわくと、「神様この私から罪を消してください」とやるわけだ。

これに手を出すことは若干信仰の自由に触れそうでアレかなと思ったけど、さりとてそれを四六時中していて日常生活がままならないのはいかにも不便だ。

そんなわけで、反応妨害法「祈らない」が指示された。しかし、宗教に帰依している者にとって祈る事はかなり親和性の高い行動なので、どうも微妙に感じたらしい。ちょっと多めに心理教育を入れた。

そもそも日本人の宗教観は神仏に対して“おねだり”することが多い。
大きな願い事の時はお賽銭を奮発しちゃったり、絵馬を思い切り欲望のはけ口としたり、まあそんな感じだ。
要するに「Give meチョコレート」じゃないけれど、クレクレ君的な感じの神様との付き合いだ。

しかし、宗教における”祈り”という行為は、本質的に「許しとThank You」という構成要素から成り立っているのではなかろうか?
原罪じゃないけれど、どのみち我々には至らないところが多々あるわけで、「そんな私でもOKと言ってくれてサンキュー」ぐらいの感覚がちょうど祈りと呼ぶにふさわしい。
まとめると、「私の中から罪を消してください」はおねだりなのでNG、「罪とかあって至らない私ですが、そんな私も愛してくれてサンキュー」はOKというそんな感じの話をしたと思う。

しかし納得はされなかったようで、その宗教団体の指導員の所に行って、そのような祈りをささげる行動について相談したらしい。
クライアントさんが驚いたのは、指導員がほぼまったく私と同じことを述べた事だ。
そして、「病気の症状などは、宗教や祈りによって良くなる事は無いので、きちんと病院の先生のいう事に従う事」とクリアに言われたそうだ。それはすごいな。

「指導者さんは、祈りに関してもう一言一句、ほぼ先生と同じことをおっしゃったので、とてもびっくりしました。そこで、先生に言われたことも説明したら、その通りだ全面的に肯定されていたので、とても納得がいきました。」
私もそう聞いて、「祈るな、もしくは祈るならおねだりするな」という指示が宗教指導者にとって全面的にOKだとは逆にびっくりした。

全く口裏を合わせていない赤の他人の二人、宗教上の指導者とセラピストが全面的に同じことを言うのでは、その人も主義を変えざるを得ない。
「そんなわけですっかり良くなりました」とクライアントさんは述べた。
投稿者: 西川公平
2012-07-30 18:04
カテゴリー: 強迫性障害

Comments

OKAJIMA on 07/31 2012-07-31 14:39

素晴らしい、論考だと思います。次回から、私もそんなふうに説明したいと思います。今まで、あまりにもそれがメインテーマになっている方には、とりあえず、お題目を、「おーしーでぃーおかじまきょー」とでも唱えて冒涜する練習をしてました。宗教がらみの方は、うちでは結構多いです。ただ表面の困った強迫儀式については話してくださいますが、宗教から話す人が稀です。核心の部分とは、怖いから題目唱えて守ってもらうではなく、今日もお題目を唱えられる、生かされていることに感謝する、なんですよね。いい話を聞いたって感じです。

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