2009/09/08: 回避がなぜ苦手さを増すかについて最近の説明

積極的にでも、消極的にでも、回避をするとどうしてより一層苦手さが増してしまうのかについて、最近はこのように説明しています。ひょっとしたら刺激等価性の話かもしれない。

不安障害に対する曝露法や反応妨害法に代表されるアプローチは、基本的に「回避するのはいっそう不安を維持・悪化するので、行けない事だ」という前提になっている。

ここでいう回避とは
積極的な回避:何かをすることで不安を下げようとする
消極的な回避:何かをしないことで不安を下げようとする
というやつです。
どちらかと言えば積極的な回避は強迫性障害(例:汚いので手を洗う)に、消極的な回避はパニック障害に(例:発作が嫌なので電車に乗らない)多いけど、まあそれはバランス的なもので、消極的回避中心の強迫性障害(例:汚いのが嫌なので外出しない)もあれば、積極的回避中心のパニック障害(例:ドキドキしたら頓服を飲みまくる)もある。

きっと行動療法をされている先生は「回避はダメです」という事をあれこれ表現しながら患者さんに伝えている事だと思う。

でも、なぜダメなのかという事は、あれこれ議論の分かれるところだと思う。

一番簡単な理由は、「回避していくと生活が不便だから」でしょうか。そりゃあ、何かできない事があるより無い方が良い。
しかし、それはなぜ不安を維持・悪化させるのかという説明にはならない。

行動分析のモデルでは
不安あり→行動→不安なし
不安なし→行動→不安の生起を阻止
などとして、この最後の「不安が無くなる事」「不安が起こらなくなる事」などが強化子として行動が維持されるという説明が成り立つのだと思う。
消極的な回避の場合は死人テストを通らないので行動分析における行動とはみなさないのが玉に瑕ですが。

まあしかし、行動分析するのに不安とか称するのもアホらしいのですが、そこはそれぞれの個別の状況などに置き換えてください。

逆に曝露法や反応妨害法の心理教育においてどう言われているかというと「不安な状態にわざと自分の身を置き、いつもの不安が下がるような行動をしないことで、”不安が時間の経過とともに自然に下がるのを経験して”、”その行動を取っても/取らなくても大丈夫だと学習し”慣れていく」のような形が多いかと思います。

あるいは、「回避は積極的にも消極的にも一時的に不安を下げてくれるけど、全体的に不安を上げる」などという説明もなされるようです。じゃあ、それはなぜだという事は説明されないけど。

最近私の説明で流行っているのは、論理式を使うやつです。

A⇒Eであるとき、Ā⇒Ē(Aの反対はEの反対)みたいなやつです。

具体的に言えば
汚いものを触った時に手を洗ったら(A)、汚さが取れて安心した(E)という経験は、イコール
汚いものを触った時に手を洗わなかったら(Ā)、汚さは取れずに不安なまま(Ē)という経験と同じ(等価)なわけです。

あるいは、
外出を取りやめたら(A)、発作の不安が無くなって安心した(E)という経験は、イコール
外出をしたら(Ā)、発作の不安があった(Ē)という経験と同じ(等価)なわけです。

これは、もっと簡単に言えば
頓服を飲んだら(A)、大丈夫だった(E)という経験が
頓服を飲まなかったら(Ā)、きっと大丈夫じゃなかった(Ē)となって、
行動する自信につながっていない場合にも見られます。というか、こっちの方がシンプルですね・・・。

で、結局
「人間の脳みそは等価なものを勝手に置き換えちゃいます。だからある命題が真であればある程、逆もまた真として学習が進み、いっそう不安が強くなるのです」
というところを理由として心理教育しています。

まあ、色々な説明がありえるんでしょうが、今のところこんな感じで。
このエントリーをはてなブックマークに追加
投稿者: 西川公平
2009-09-08 22:48
カテゴリー: テクニック

Comments

コメントはまだありません。

Add Comment

TrackBack

トラックバック

トラックバッックはありません。