陪席やSVなどの話です。途中で話がそれまくってますが・・・
ここ最近、「他人の面接を見たり、他人に面接を見られたり」が増えているので、そこから気が付いたことなどを書いてみます。
精神科医療には、シュライバという文化がそもそもあって、これは先輩の先生の傍らにあって診察時にメモを取ったり、観察したりしながら診療補助を行うと同時に勉強をさせてもらうというシステムです。シュライバが何語かは知らんけど、きっとドイツ語かな。
そういう補助業務とかでは無いんだけれど、カウンセリングの世界にも陪席というものもあって、これはカウンセリングの横で研修生などが見て勉強することです。
本などで「認知行動療法とは、これこれこんな感じです」と書いてあったとしても、それは「水泳とはこんな感じです」と書いてあるのに似て、泳いだことのない人には実質あまり伝わらないように、認知行動療法を伝えるには不十分です。
また、本に書いてある症例と治療法は、ちょっと現実にはあまり心理士に回ってこないほどシンプル(併存症がない)な人が多い。
最近では認知行動療法の面接をビデオに撮って、そのセリフを起こして個人情報を省いたうえで、模擬患者さんに演じてもらい、DVDで出しているものなどもあるので、ある程度様子が見てとれなくもない。
しかし、そのような作りの場合基本的には本と同じく、分かりやすくするために不必要なセリフや情報を省いてあるし、症状としてもシンプルなものが出る。一風変わった症状などは出てこない。
でもまあ、医療機関で普通に臨床をしていると、そんなピュアピュアしい人が心理士のところに回ってくることは稀で、”ちょっとしたごった煮”的な人が来る。
なんだかんだ併存症が有ったり、なんだかんだ家族とゴタついていたり、経済的な問題が有ったり、・・・etc.
臨床を初めて4年目ぐらいに、うつもなく、対人不安もなく、全般不安もなく、もちろんⅡ軸もなく、仕事上の問題もなく、家族ともうまいこといっていて・・・というシンプルなパニック障害の人が回ってきた時には「こんな人もいるんだ!!」と驚いたぐらいです。
開業してみると、逆にそういうシンプルな人ともお出会いする機会が増えました。
「ああ、シンプルな病態の人ってそれなりにいるんだ」と思うと同時に、
「こういう人たちは医師が自分で何とかするつもりでガメてた」のか、
「薬物療法でそこそこ悪くないから御の字ってことで、認知行動療法という資源を回すに値しないと判断されたのか」とか、
暗い気持ちになったりしてましたw
ちょっと話がそれたけど、まあそんなわけで、本やビデオで見られるのはシンプルな病態にシンプルな介入のお話ですし、通常臨床でお出会いするのは、ちょっといろいろな困りごとを抱えた人ですし、初学者の方はどうもそのことに戸惑いや混乱があるようです。
で、そんな初学者さんはクライアントさんの症状の全体像がつかめないままで、向こうから提示されたままの症状に対して、ケースフォーミュレーション(行動の連鎖や機能分析も、認知的なマッピングなど)も雑なのに、いきなり本で学んだ大技(エクスポージャーや七つのコラムなど)をかけようとするから、結構イタイ感じです。
これがオリエンテーションが精神分析だろうがロジャーリアンだろうが、そもそもそこそこ臨床に長けた人だと、雑多な症状の中の核となる幾つかのパーツについて何となく雰囲気的に掴んでいるので、そのような戸惑いはやや少ないです。
そういう素地を持った人がCBTを始めた場合なんかは、患者さんを把むのはなかなかいいなと思います。逆に介入を入れるときに気持ち悪いみたいだけど。
まあ結局のところ、ごちゃっとした雑多な症状の中から、扱うべきものを扱い、扱うべきではないものを扱わないようにしながら、アセスメントやモニタリングを通じてメインの部分を探っていきつつ、介入するというのがいいのだと思います。
扱うには扱うなりの、扱わないには扱わないなりの理由があるのですが、それらの違いが療法の違いなのかなとも思います。
さて、ようやく長い前置きが終わって今回のタイトル「カウンセリングの会話における消去」ですが、そういう引き算的なのが私のカウンセリングの特徴でもあるようです。「〜ようです」という伝聞推定形なのは、陪席やSVで見た人が感想でそう言うから。
おそらく反対に足し算的なのは「カウンセリングの会話における強化」で、これは面接でどんどん褒めたり注目したりとポジティブなフィードバックを返していこうという作戦だと思う。
で、人の陪席に入ったりすると、実にみんな足し算的なカウンセリングで、ちょっと「そんなに飴ちゃんをばらまいて大丈夫かよ」と思う。もちろん相手とか年齢層とかにもよるんだろうけど・・・。
まあその作戦もある程度大事だけど、痛し痒しなところもあって、私はそんなにお奨めではない。
しちゃダメだとは言わないけど、いずれしちゃダメだになると思う。
ま、私ができないだけですが。
要は、最初はカウンセラーとクライアントの共同作業でもってスタートしたとしても、それまではクライアントが一人でやってたわけだし、その後もクライアントが一人でやっていけることが前提でないといけない。
「関わりを持っている間だけは良かったです」てのではあんまり意味が無いわけだし。
細かいことを言えば、強化を意図した相槌と、消去を意図した相槌は当然ながら全く違う。
もしこれを観てる人にCBTなどをしている人がいるとしたら、自分のある面接のある相槌は、果たしてどちらの機能を持っていたのだろうかなどと、思い巡らしてみてください。
伊藤絵美 on 2011/06/30 2011-06-30 10:06
お書きになったことは、私も常々感じていること、およびSVなどで何度も口にしていることで、カウンセリングのセッションでクライアントが口にしたことはすべて扱わなくてはならないのではなく、ここで何を扱うかをクライアントと相談して決めた後は(ということは、それ以外のテーマは一応「扱わない」ということになっている)、扱うことになったテーマについては、協同作業で一緒にしっかりと取り組んでいくのは当然のことですが、それ以外のテーマについては、たとえば橋渡し(チェックイン)の時間帯でクライアントがちらりとそれについて話をしたとしても、しかもそれがそれなりに大きなネタであったとしても、カウンセラーから食いつかないというのは、とても重要なことだと考えています(わざわざ食いついていって、セラピーの構造がめちゃめちゃになってしまっているケースの多いこと)。
・・・といったことをこのようにまとめて書いてくださると、「なるほどなるほど」と改めて納得できます。ありがとうございました。今後とも貴ブログを楽しく拝読いたしたく、どうぞよろしくお願いいたします。