2010/12/07: 行動療法学会 大会参加記 2日目

大会中も「ブログ見てます」とたくさんの人に言われました。
コメントは全然ないですが、見てると言われたし書いてみています。コメントよろしく。

二日目は、午前中興味がわかなかったので、ランチョンから参加しようかなと思ったけど、思い切ってケーススタディー1へ
。どうも三日目に興味が沸くものが集まり過ぎている感がある。

ケーススタディー1は長岡先生という方が社交不安のケースを発表されていた。
まあ要するに、社交不安の過剰適応努力を良くなったと勘違いして、手綱を緩めた所で本チャンの症状が来て、今から仕切り直しだよねというケース。あーゆー過剰なのも、最近では軽躁って言うんですかね?
哀しい事に座長の福井先生が、くだらない質問と感想とぼやきで判ったような「オレオレ話」をダベってディスカッション時間を食いつぶしてた。まあそんな居酒屋のオッチャン風な所が憎めないキャラとして良い所かもしれないが、SADの普通の精神病理について誰も知らないんだからそれを伝えるのが本来の役割だと思う。

ランチョンでは尾崎紀夫先生が、「心の痛みと身体の痛み」というテーマでお話しされた。ランチョンというのは医学系の学会では良く見かけるけど、行動療法学会では印象が無く、ちょっと不思議な感じだけれど皆素直に随伴性を操作されている感じ。
尾崎先生は、名古屋大学の先生らしくて、初めてお話しを伺ったが、とてもお話しが上手くて、かつ面白い。
最後は医局へのリクルートまでされていて、しかもちょっと成功していたからすごい器用なものだと思った。
認知行動療法の先生ではないんだけれど、勘どころというものを押さえるのが上手そうで、診察も達者にこなすんだろうなと思った。

その後はポスター発表を観に行って、名古屋でアイズサポートとして開業している伊藤先生を発見。ひとしきり開業について先輩風を吹かす。ついでにポスターの行動分析についても気になる所を質問する。まあ、質問かいちゃもんか判らないけど、とにかく機能分析の内容と、介入の内容が異なっているのはムズムズする。
おそらくABAの悪い点の一つは、どうでも良いけど機能分析しやすい部分のみを機能分析して、臨床でもっともクリティカルだった所が機能分析しにくかったら、クリティカルなところを無かった事にしちゃう事だと思う。ABAの人たちは信頼性は判っても妥当性は判ってないんで。

その後は、行動療法士会の企画シンポジウム「行動と認知と行動分析の何が違う」に参加する。
正直シンポジストたちを見れば「認知は行動なんだ、機能分析が大事なんだ」と言うしかないようなメンバー構成。
コメントしようか、黙っていようか、微妙に悩む所だ・・・と考えていた所、すごく勇気ある(または空気読めない)若者が、「行動療法学会と認知療法学会は何で一緒にならないんですか?」と発言。ウケるww。
しかも間の悪い事に、最後「少し時間が余ったので、誰か意見ないですかー」と司会の先生が呼びかけている。

まあ、じゃあ、僭越ながら・・・ということで
「生粋の認知療法家がいないこんなメンバーで話ししてたって、出来レースみたいな見解しか出ないに決まっている。それはつまり、行動療法を学んでいない精神分析家が「行動療法なんてクソだ」と悪口言ってた文脈と一緒だ」、「そんな事ばっかりしてるから、長年やってる割に保険点数化で認知療法に後れを取るんだ。マクロな社交性はないのか?」みたいな、あくまで話題に花が咲くように少しHotな意見を述べる。

久野先生が「第一世代の者は行動療法と言えば石を投げられるような世代を生きてきた。皆の流れに逆らって生きるというのは、すなわち社交性が無いと言う事だ。」と恐るべきノリ突っ込みを返してきて、会場は大いに沸く。
さすが、これまで投げられてきた石の大きさが違う世代、つまりもっと非論理的で、もっと数の暴力で、もっとイカサマ風の、クソミソの酷い批判をされ続けてきた世代だと感心した。

その後は、中級研修会について司会を含めて小林重雄先生とミーティング。あまりに多くの人々が小林先生にあいさつに来るし、老人は話が逸れがちなので、ミーティングはちっとも進まず。
しかし、要するに小林先生は、「ディスカッションを盛り上げて皆が楽しくためになる用にしろ」とイイ事を言っていた気がする。というか私にとって都合の良い部分だけを聞いたことにする。

まあそんな感じで、二日目の発表が終わり、懇親会に参加する。

懇親会では、1月の研修会の打ち合わせを遊佐先生としようと思いきや、あまりに外人さん達に囲まれて英語をしゃべっておられるので、後回しにする。

前回会う事を果たせなかったBECの上村先生と愉快な仲間達とおしゃべりしつつ、今度大阪・神戸CBTを学ぶ会でBECの療育について発表してもらう事を約束する。

そういえば、1日目の松原先生が、アサーションの事を脱感作だと述べておられて、例によってぜんぜん意味が判らなかったので、関西学院大学のアサーション王子こと三田村先生に伺う。
現在滅びつつあるアサーションは、これまでにずいぶんすそ野が広がっていて、研究者が言うそれと、フェミニストが言うそれは、というか誰が言っているアサーションもそれぞれ定義が違っているとのお言葉。

ウォルピの言うアサーションは、「不安に対する拮抗として怒りの情動を用いるという意味でのアサーションじゃないか」、とのことだった。さすが王子に訊くと話が速い。
なるほどー、強迫の人でも怒らせて曝露とかもやってる人いるもんなー。私はしないけど。
小林先生も私へのコメントとしてはアサーションについて述べるって言ってたけど、多分それはこのウォルピのアサーションの事を指していると思った方がよさそうだ・・・、などと予習をする。

しかし、いつもながら思うのは、懇親会で普段会ってしゃべる人々とばかり、金魚のフンよろしくくっついているのって、ちょっとどうかと思う。いつか懇親会場をビデオ撮影して距離を測定し、同門ゼミ生同士で固まる「金魚のフン度合い」のデータを取って、どこのゼミが一番金魚のフン密度が高いのか明らかにしてやりたい。

私は特定の師匠とかがいないせいで、テキトウに渡り歩けて、逆に多くの先生に優しくしてもらえて、なかなかラッキーだと思う。


中級研修会の打ち合わせの結果、印刷を自分でする事になっていたらしいので、1次会で切り上げてキンコーズに行って、40人分印刷して、ホッチキスで止めて、という作業をホテルの部屋で黙々と行う。
その間知り合いから、「今、谷先生達とカラオケ行ってまーす」的な、気分をトホホとさせる感じのメールが入る。
谷先生とカラオケ行きたかった・・・。

そんな感じで、二日目の夜が終わった。
結局三日目に発表というのは、不安・緊張も持続するし、フロアで出す意見も控え目になるし、飲み会も遅くまでいけないし、損だなと思った。
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投稿者: 西川公平
2010-12-07 00:46

Comments

アサーション王子 on 2010/12/07 2010-12-07 20:29

西川先生

大変筆まめですね。

アサーションについてですが,

たとえば,Galassi & Galassi(1978)は
「恐らくアサーティブ行動は他の行動的概念と比べて,
よりセラピストの理論や価値観に依存して定義されるだろう」(p.16)
と述べいます。

つまり,客観性を重視する行動療法において
「アサーション」というのがなかなか難しい概念
であることが分かります。
また,余り知られていないことですが,
弁証法的行動療法のMarsha M. Linehan
もこのアサーションの概念の捉え方について
行動分析学の枠組みを援用した方法について
提案しています。
現在,アサーション・トレーニングは治療パッケージの
一部として紹介されることが多いですが,
「治療パッケージの一要素」という殻をやぶれれば
もっと充実したアサーション・トレーニングの
使い方でできると私は思っています。

アサーションを取り上げてくださりありがとうございました。

三田村仰
Galassi, M. D., & Galassi, J. P. (1978). Assertion: A critical review. Psychotherapy: Theory, Research and Practice, 15(1), 16-29.

Linehan, M. M. (1984). Interpersonal effectiveness in assertive situations. In E. A. Blechman (Ed.), Behavior modification with women (pp. 143-169). New York: Guilford Press.

三田村仰 (2008). 行動療法におけるアサーション・トレーニング研究の歴史と課題. 人文論究 (関西学院大学人文学会) 58, 95-107.

gestaltgeseltz on 2010/12/07 2010-12-07 23:31

>王子

引用頂ける所などがやんごとなき感じでありがとうございます。
アサーションの歴史http://orange.zero.jp/just_...を拝見させてもらいました

Salterの提唱したアサーションは条件反射療法という出発点なんですね。たしかにケンカというのは意外とレスポンデントな話かもしれません。

ウォルピによれば、不安の拮抗するのは三つ「弛緩反応」、「性反応」、「アサーション」というのも、要するにアサーションとは現在のスキル的とらえ方より、むしろ身体反応の一種なとらえ方をされている事が判ります。

アサーションについて小林先生は「アサーションを相手の意向をくみ取りつつ自己主張する」みたいに最初から言うのはおかしい。あれはケンカのやり方だ。私はケンカのやり方を教えてやると言って指導している」とおっしゃっていました。まさにWolpe流ですね。

本質的に行動的な概念だったはずのものが、認知的な概念に置き換わっていくのは、例えば古くはタイプAなんかも行動からパーソナリティーに移ったのと似たような流れなのかもしれませんし、ストレスがイベントから認知に変わったのもそうかもしれませんね。そういった流れが良い事なのかどうかはさっぱり判りませんが。

最終的には、機能的定義ですか?むむむ。
須らく行動は機能を求めて起こるべきなので、改めて定義って感じがしないですが、要するにリネハンのやってる「対人性効果的スキル」ってのは弁別訓練みたいなものなんでしょうかねぇ・・・

アサーション王子 on 2010/12/09 2010-12-09 16:48

西川先生
リネハンは確かに,「弁別訓練」に関するSSTの論文で一つ,連名になっています。

リネハンの「対人的効果性スキル(interpersonal effectiveness)」(旧アサーション)
自体には,それほど弁別訓練的な内容は強くないと思いますが,
社会的スキルの究極はやはり「文脈を読み取る」スキルでしょうね。

「アサーションを教えることは喧嘩を教えること」という小林先生のご発想は言い得て妙ですね。もともとの発想はそこにあると思いますし,いい意味で喧嘩もできないと対人関係がしんどいと思います。ある程度普遍的な有用性があるかもしれません。
一方で,この発想はアメリカ由来であるということを常に意識して置く必要もあると思います。
アメリカという文脈で「イイモノ」が日本という文脈で「いいもの」かは分かりませんからね。文脈依存的でもあると思います。
勝手な方向に議論をもっていきましたが,改めて色々考えさせられました。

アサーションについては熱くなり過ぎますのでこの辺で。
(上手く弁別できてますでしょうか?)
次の学会でお会いできるのを楽しみにしています。

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