疼痛性障害、身体表現性障害など、「痛い」という事に関する認知行動療法
先日福井CBTを学ぶ会で「痛みに対する認知行動療法」というタイトルで地域の内科のお医者さんが発表されていた。
なかなか面白い発表だったので、その発表に寄せてということでコメントスライドを作ってみた。
スライドを作ってみると、そーいや**さんも腰が痛いって言ってたな、○○君の時も腹痛を扱う必要があったよな、・・・と結構私は「痛み」というものを対象に認知行動療法をしているということが分かった。
しかし「痛い」事をキーワードに今までまとめてみた機会はこれまで特になかったのでI先生には貴重な機会をもらったと感謝だ。
そんなわけで「痛みに関する心理的制御について」のコメントスライドどころか、結構本格的な疼痛性障害に関する研修になってしまいました。
「痛み」を認知行動療法の文脈でとらえるためには、それを「痛みの認知・行動」ととらえて、それらの認知・行動を扱うことになる。
たとえば、「痛みの予期」というものがある。「ひょっとしてこれをしたら、この姿勢を取ったら、この部位を使用したら痛くなるのではないか」と何かを持ったり動作をする前に予想するという認知が働く。
これはお察しの通り、当然痛みの知覚を増強するし、回避も引き起こす。
ちなみにそれは「痛み」に特化したような事ではなく、他の身体違和感(例えばめまいとか、吐き気とか、むずむずするとか)でも似たようなもので、つまるところパニック障害の心理教育とけっこう似た事になる。
あるいは痛みというのは割とはっきりした罰刺激なので、痛い!と感じた後で「ああ、やっぱりこんな事しなきゃよかった」とか、「もうこの痛みは一生治らないんだ」とか、「痛いのがどんどん酷くなって来ている」とか、「本当はこれはもっと重大な病気の前兆ではないか」とか、アレコレ認知が出てくるし、その痛みの前の行動は消去される。
痛みはまた”注意集中”の文脈からも捉える事が出来る。痛い!ということでその痛み感覚を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、ますます痛みは増強される。
そして最後に、痛みはコミュニケーションや注目の機能を帯びる事がある。まあそれはいわゆる疾病利得というやつです。
そんなこんなで痛みに関して何だかんだやっていくと、「痛いけどまあ、痛いんだ。しかたない」ぐらいになれば、あんがい痛みそのものも前より出現頻度や程度がマシになったりする。
つまり、痛みを受容する事は痛みの閾値を下げてくれるのだ。