2007/06/12: コラムはなぜ精神症状を改善するか?

だらだらと考えてみました。うじゃうじゃと難しい言い回しが続きます。すみません。

時々「コラムはなぜ精神症状を改善するのだろうか?」と考える。
ちょっと常識的に考えて、言葉や文字が、あるいはコミュニケーションが誰かの何かを改善するとは想像しがたい。
それは現実に起こる、脳的なシステムに基づき、科学的に説明がつく現象だろうか?
それとも宗教や占いの類だろうか?

でもまあ、「すっかり良くなりました」という人がいるし、その人が薬も飲んでいなかったり、飲んでても効いていなかったりもするわけだから、目の前で「認知行動療法が精神症状を改善した」としか言いようがない現象がしばしば起こる。
謎だ。

今日はそのことについて書きながら考えてみたい。

大きく言えば「精神症状のシェマ」と「CBTの提供するシェマ」が異なっているからだろう。(ここではシェマを「思考・行動・気分・身体反応を含み、情報のインプット、つまり情報の取捨や構造化やアウトプットなど、何もかもを含む一連のもの」として考えています。)
例えばうつの文脈は「動けない」や「頭が働かない」であり、CBTの「コラムを書く」や、「あれこれ考えて自らの主張に反論する」はミスマッチだ。
そのように精神症状と異なるシェマとしてCBTが新たに(段階的に)導入されれば、自然と脳の方で調節がなされ、症状のシェマの方を阻害(縮小)する事になる。

また脳・認知・行動のリソース面からも考えられる。「コラムを書く」ことは症状に浸る事を邪魔する。
例えばパニック障害で言うと、エクスポージャーシートを書く事と、自分の身体的な変化に多くの注意を払って浸る事は、それぞれにリソースを食うので、並列処理する事がとても難しい。書けないか、どちらもが中途半端になって浸れない(パニックになれない)か、困った事になるだろう。OCDでも書きながら手を洗う事はしづらい。
しかしここには注意が必要で、多くのパニック障害の方が取る「気の紛らせ行動(例:バッグをかき回す、冷たいものを飲む/体に当てる、携帯でゲーム/話をする)」は、機能/行動分析的にはむしろ「症状を維持・悪化」させると解釈される。
むろんエクスポージャーの当初はそれらの安全確保行動はある程度必要だが、最終的にはそのような安全確保行動を全てやめ、何も紛らすことなく不安の上昇に耐え、上昇した不安がある一定時間維持された後、回避や対処を全くとらずに時間の経過だけで不安が減衰する事を学習する必要があるとされる。そうしないといつもの安全確保行動が増えていく結果になるだろう。
では、何ゆえコラムを書くというリソースの消費は治療にポジティブで、いつもの気を紛らわせる系のリソースの消費は治療にネガティブなのだろうか?

これはコラムが学習=記憶のサポートをしているというのが理由かもしれない。
いつもの紛らわせ行動は不安の上昇時に用いられ、その行動によって不安が低減したという学習が成り立つ。コラムの場合は不安の上昇前、ピークの維持期間、下降時までのタイムスパンの中で思考/行動/身体反応をチェックできる。
最中にチェックすること自体はおそらく治療にネガティブだが、後に紙に書かれたシェマを再チェックする事で再学習が可能である。言い換えればエクスポージャーのコラムを書いたり読んだりする事は、in vivoのエクスポージャー1回プラス、in vitroのエクスポージャー数回の効果を上げるので、差し引きプラスになるのだろう。

さらに「言語」ないし「書くという行為」が持つ主たる効果についても考えるべきだと思う。例えばこの論考も「書きながら考え、考えながら書いて」いる。哲学の方向に踏み出さなくても、日常的な常識として言語や書字が考えを整理し、まとめ、比較的メタにする現象を起こす。
「①現象そのもの」よりも「②言語(会話)」は比較的メタで、「③書く事」の方がよりメタで、「④書いた事に対して書く事」は更にメタにと、永遠に続ける事ができる。
そういう意味では生の現象であるウツや不安を、メタ化する事なくしては書き表せないし、コラムは更にメタ化を推進するフォーマットを有している。(例えば「ウツだ」と書いたところで、そのディティールは非常に乏しい。)

精神分析や来談者中心のメタ化は②に留まり、行動療法のメタ化は③付近が多いと思う。CBTは重点を③以降に移す事で効果の拡大がなされている。思考というものは最も高次な脳機能の一つで、そのプロセスを扱う事は本質的に紙上では難しいのだろうが、ざくっと低次元に落とし込んだ「思考を表す文字」からでさえ、脳はフィードバックを十分受けられるほどに高性能なのかもしれない。

ちなみに③はセルフモニタリングなどがそれにあたり、④は反論する余地のあるコラムがそれに当たるだろう。
しかしこの事は①や②への軽視になると上手くない結果になる。①⇒②⇒③⇒④へのメタ化展開のプロセスがCBTの真骨頂であって、とつぜん④のメタ化を導入するのは木に竹を接ぐ結果になる(いきなりコラム書いてくださいってのがそうだと思う)。
③、④に対するフォードバックも結局②の言語(会話)でなされ、そこでも認知再構成が行われるのだからやはり重要。「CBT話芸」ができるようになってから、その補助に③、④を使うってのでもいいと思う。
もちろんそもそも③、④あたりからできる対象者に、モタモタ念入りに①をする事は治療コストを増やすだけだが。

しかし、なぜメタ化は症状に対抗できるのだろうか?
仮説A:メタ化は明らかに大脳新皮質の働きからもたらされるので、メタ化が大脳新皮質の辺縁系にフィードバックをかける(あるいは症状を維持・悪化させる別の新皮質部分に干渉する)パワーを増す
仮説B:発病するという事はすなわち非メタ化を意味するので、メタ化が治療として成り立ちうる
等考えてみたが、どうも証明不可能なトートロジックの態だ。

とりあえずここまでをまとめると、「コラムがなぜ効くか」は
1、症状と異なるシェマのミスマッチを脳が調整するから
2、脳・認知・行動のリソースを食って妨害するから
3、in vitroの経験を増やし、学習=記憶が定着するから
4、メタ化を促進するから?
となった。

書いてみると1も2も3も4も同一ないしパラレルな現象について、言葉を変えて言っているだけのような気がする。
こんな事をあれこれ考えたりせずに、「現象として効いていると第三者が言っている(エビデンスがある)」から、まあいいじゃないかというのが、とりあえず私のスタンスです。
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投稿者: 西川公平
2007-06-12 16:38
カテゴリー: 雑談

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