2007/06/12: 認知行動療法にフィットしない人

認知行動療法にフィットしない人について書いた

動機付けというのは、中々難しい。
逆説的には、治療が進まない場合にしばしば取り上げられるのが「動機付け」だという気がする。

普通は、動機付けはインフォームドコンセントや治療教育中になされる事が多い。その場で「よーし、やっていこう」となって、まあその後も面接中にチョコチョコ修正したりしながら、めでたく治療終了まで持っていく。そういう面接においてはあんまり動機付けが取りざたされない。

途中修正を要する時とは、課題がなされていない時とか、面接に変更や遅刻やキャンセルが多いときだろうか。つまりCBTのカウンセリングそのものを扱う必要が生じた時だ。ここをどう扱うかで治療者としての何かが問われる部分だと思う。

まず「扱わない」というのは論外だろうと思う。それはCBTの持つ構造化の利点を放棄するという事に等しい。

そこで問題は「どの程度扱うか」という事になる。「多量に(きっちりたっぷり)扱う」から、「少量に(やんわりと)扱う」まで、趣味が分かれるところだろう。

多量に扱う事は、普通に考えて「嫌味」になりがちだと思う。もう二度と課題を忘れない可能性がある一方で、もう二度と面接に来ない可能性もある。
「CBTでうまくいく人だけをCBTで扱う」事が目的の人には別にこれで良いだろうが、それは私の主義とするところでは無い。
家族療法などではここで「治療者側の課題の出し間違い」である事を強調し、謝れと書いてあるが、それだって十分に慇懃無礼な嫌味だ。

少量に扱う時、やはり前述の構造化の放棄の危険性をはらんで来る。あるいは治療が進まず、いわゆる「なあなあ」で面接回数がかさむ。
私は面接中にコラムを書いてもらう事はほとんど無いが、面接中にホームワークを手伝うという治療者もいる。それもそれで1つのやり方だろう。

とりあえず教科書の思惑通りにCBTが進む事は万に一つも無いので、あれやこれやとオンデマンドに治療の方を変更しながら、なんとか治療に乗せていく率を上げるというのが難しいと思う。間違っても「治療に合わせて患者を変更して行こう」などと思わないことだ。
最近はのらりくらりとちうか、だましだましというか、治療に乗せていけるようになって、結果昔より脱落が減った気がする。つまり「なあなあ」が上手になった(いい意味で)。
私が上手だと思う先輩・師匠筋の人は皆ぬらりひょん(いい意味で)のように、しれっと粘り強い感じがあるので、見習っていきたい。
このエントリーをはてなブックマークに追加
投稿者: 西川公平
2007-06-12 16:21
カテゴリー: 雑談

Comments

コメントはまだありません。

Add Comment

TrackBack

トラックバック

トラックバッックはありません。