死について
ここしばらく、死に関した仕事をしていました。
ご遺族をはじめ、周りの人々の喪失感、無力感、絶望感は大変なもので、亡くなった方は直接私のクライエントさんでは無いのですが、間接的にもずいぶんしんどかったです。
大切な誰かを失った悲しみや嘆きについては、それが全く正常であるゆえに、カウンセラーの力の及ぶところではない。
身近な人間が「私がもっと**していれば、こんな事にならなかった」、「あそこであんなことしなかったら良かった」などと思う事は自然な事で、もちろん認知のゆがみなんていうものでは無い。
あるいは必死で押さえ込んだり、現実感を喪失したり、否定したり、誤魔化したり、わざとはしゃいでその事を考えないようにしたり、考えが浮かぶきっかけを避けたりする事も、やはり自然な事だと思う。人として当たり前の行動だ。
逆説的に言えば、死に対する反応には何一つ異常なところが無いし、そのことからより早く立ち直った方がより適応的だとは全然思えない。したがってカウンセラーなどの出る幕ではない。
しかし絶望と不信の渦巻く状況の中で、ただ突っ立ってずーっと周りにOKを出し続けるだけでも、おぼれている人にとって一握りのわらのように見えることもある。
そうは言っても相談を受け付けるたびに、本当に熱が奪われる。死とは恐ろしいものだと思う。波状のブラックホールのようだ。幸福の王子の振りをして突っ立ってるのもかなり大変。
陰ながら助けて頂いた人々がいなければ、危なかったと思う。本当に周りの人に感謝しています。そんな話をされた方もかなり凹むとわかっていながら、確信犯的に支えてもらってました。
さて、相談を受けながら、そこに回復を妨げる二次的な要因があれば、そこはある程度介入した。
例えば、「こんな酷い事が起こったのに、自分は平気で**してるなんてダメじゃないか?」など考え、普段の行動をぜんぶキャンセルするとか、「食べられない」、「寝られない」とかは、後々しんどい。
まあそれでも、あまりに近しい人だったとしたら無理もないし、実際「そう思ったり、そうなったりするのも無理もないよね」というのが基本で、「私は間違ってた」と嘆く人に、「間違ってたと思うのはそれであってる」という事を言い続ける必要がある。
とにかく、死という出来事が本人の中で何らかの位置づけを取る事を、急がせも遅らせもせず、つまり本人のペースの邪魔をしない事しかできないと思う。
しかし仕事的には、おそらくこの先はある程度の段階を設定してグリーフワークを進めていくという、大変非人道的で、自然ではない、厚かましくも恥ずかしい行為をしていかなければならないのだと判る。
カウンセリングはヒトの気持ちに土足で上がりこむような、卑賤で汚らわしい仕事だと改めて思った。
皆さん頼むから死なないようにして下さいね。