認知療法における、自動思考(テーゼ)に対する反論(アンチテーゼ)
反証的思考とは、認知療法である浮かんだ考えに対して、別の考えを抽出することです。
この反証の「証」という部分にどれほどの客観性を込めるかについて、すなわち主観と客観の弁別については、いささか意見が分かれているのではないかと思います。
私は主に認知のアセスメントとして3行のコラムを使い、再構成まで持っていく時は5行のコラム(+気分の再評価)を使っている。
どちらかと言えば「主観と客観の弁別」に対して介入しているのは、3つのコラムにおける状況と自動思考を分ける時のみである。
しかし、他にも、自動思考+自動思考の根拠、反論+反論の根拠という、さらに2回の「主観と客観の弁別」をかませる、7つのコラムと言われるやり方もある。
ちなみに私はそのやり方をやった事が無い。
理由はいくつかある。
・自動思考の根拠は自動思考の行に書けば良く、反論の根拠は反論の行に書けば良く、行が無駄になるから
・十中八九自動思考に根拠などは無く、それが意味するのは「自動思考に根拠なんてないんだ」という事に落ち着きそうだから。(その事を体験するのには意味がありそうですが)
・3回も主観と客観を分ける手続きをするのが、まだるっこしいから。
ここまではテクニカルな見解の相違だと思う。しかしここから、
・そもそも本質的に主観と客観とが明確に区別可能なものだと思っていないから
・主観か客観かで無駄なディスカッションが発生しそう
となると、これは哲学的な見解の相違になる。唯物論より独我論ではないが。
言い方を変えれば、
「”主観と客観の弁別”というテクニックや効果についてはある程度認める。しかし”主観客観弁別可能仮説”を100%信じてはいない」
とも言える。
むしろ認知療法的なテクニックとして重要視したいのは、「どの部分を主観(自動思考)と定義すれば、その後の展開がしやすいか」という、治療者(セラピストおよびクライアント)の主観だと思う。
さらに言えば、そろそろ宗教っぽくもなってくるが
・認知療法では良い客観が悪い主観をやっつける風のナラティブを発しやすいが、どちらかと言えば客観(のふりをした主観)が最も効果的に自分を痛めつける悪者である
・「よりポジティブな考え方をすれば、よりポジティブな人生が歩める」という考えは、ネガティブな考えを抱く自分をより一層みじめにするために使用される事が多い。
みたいな事も、ぼんやりと思うわけですよ。
最終的に行きつく先が「”合理的”思考」っていうのも、少し理が勝っている気がして本当のところ好きになれない。
智に働けば、角が立つって言うしなあ・・・。
ていうか、あそこの行に理屈上どれだけ正しい事を書いても、腑に落ちない事には気分が変わらない。そういう意味では、むしろ”合心的”思考って書く方が良いよ。
ま、そんな変な日本語を作成しなくても、バランス思考とか、折衷的思考とかあれこれ言い方を変えている人は多いですが。
使わないと言えば「10の認知の歪み」ってのも使わないなあ。
あれもまあ、スピーディーに主観と客観を切り分けるための一つの道具なんだろうけど・・・。
最後はグチグチ言って終わります。
saikohu kizaik on 2010/07/21 2010-07-21 16:42
その後、偶然にも先生も講習会をされた例の某大学病院にて認知行動療法を受けています。
コラム法はどうしても「根拠」の欄で「うむむ」と止まってしまいます。
根拠、という感覚がどうしても掴めない。
自動思考に書き出した内容を客観的にみて、自動思考の根拠を探すというのが難しい。
(というよくわからない文章を書いている時点で、「根拠」の欄の意味がわかっていないですw)
けれども、コラム法を実践して、少しづつ楽になっています。
ただいま復職して半年になりました。一年前に比べて薬も半分に減りました。
そしてコラムを続けた結果、「考えすぎるな。とりあえず動け。」という結論が出ました(笑)