2018/08/01: 第28回ブリーフサイコセラピー学会in 京都 参加記 西川

そもそも今回のブリーフサイコセラピー学会は参加するかどうか迷っていたと言うか、むしろ参加しない予定だったので、特に発表演題も登録せずのんびりしていた。
せいぜいが飲み会あるみたいだし、一応それだけでも参加しようかな、的な。

しかし、ひょんなことから参加することになった。
それにしても参加記とか書かないつもりだったんですけど、ちょっと書け的なプレッシャーを感じたので、まあ、参加してみてそれはそれで楽しかったのもあるし、書いてみます。
あと学会も無事に終わったことだし、ついでに滋賀のブリーフ研修についても私なりに思ったことを書いてみます。
時系列で言うとこっちが先なんで。

滋賀のブリーフ研修会とは、「京都でブリーフの学会するから、その客寄せのためにも、前座的に近い県で地方研修会やってね」みたいな感じのやつで、これは神戸セミナーの喜多先生に頼まれた。
まあ、ブリーフ関連の本とかも出させてもらっていることだし、研修会を開くこと自体はやぶさかでない。

せっかくだから新進気鋭のブリーフセラピストの若手をたくさん呼んで、技の祭典と行こうじゃないか。
どうせなら、色んな人の弟子筋に当たる人を呼んでみて、そこからどの師匠の教育がマトモなのかを推し量ろうじゃないか。
みたいなことを裏で考えていた。

そんな感じで引き受けてみた研修会だが、結論から言うとブリーフサイコセラピー学会には主催を降りてもらい、社)CBTを学ぶ会が主催で行うことになった。
その経緯において、わりと暴言?というか色々訳の判らんことを学会サイドの人から言われて、当時はちょっと怒っていたのもある。今となってはもう怒りは冷めたので、ようやく書けるという感じ?

例えば、変だと思うのは、見積もりを出せと言われて出してみたら「あそこがおかしい、ここがおかしい」と言われたり、「スタッフの経費は要らない。手弁当でするのが我々の伝統だから、削れ」みたいなことを言われたり、「事務作業はコレとコレとコレだけだから、事務経費はそんなに要らないはず」とか言われたり、1ヶ月半経って企画も作業も進んだ段階から「今作った開催要項です。コレに従って下さい。コレじゃないのはダメです」とか言われたり、「CBTじゃあるまいし、今どきブリーフの研修に80人も人が来るわけ無いでしょ」とか言われたり、「参加費が高いから半額にしろ。今まで参加費5000円でやってきたんだから、それぐらいでできるだろ」とか言われたり、「赤字になった時に何百万も学会に補填を要求してくるつもりなんじゃないか。学会はそんな金ないよ」とか言われたり、なんかもう、結構散々だった。

そうして、広報や準備に必要な時間をズルズルと2ヶ月削られて、最終的にはうちが主催でブリーフサイコセラピー学会は後援という形で、かつうちの研修を押すということではないが、研修会を載せるページをホームページ上に作るということで手打ちになった。

「従来どおり、型通りがやりたいなら、ブリーフセラピーなんてやらずにCBTでもやっとけ!」って私が言うのが面白いから言ってみたけど、まあそれはセリフとして面白いだけで。

結局の所、研修会としては当初の予想を上回る90人オーバーに参加いただく事ができて、予想通りプラスマイナスゼロぐらいの決算に落ち着き、ついでに言えばブリーフセラピー協会からも後援がもらえて、講師に若島先生も呼べて仲良くなれたということで、正直学会に主催を降りてもらって良いことづくめだったと言える。
でもこーゆーのって、ブリーフセラピー学会だけじゃなく、旧行動療法学会でも似たようなもので、コロキウムしたり学会大会したりする時に、学会本体は足を引っ張ることしかしない。学会の存在意義ってなんなんだろうね?

そう言えば、準備の途中で、ふと森俊夫先生が、「生きてられたら、若手の臨床の腕を磨くための道場みたいなの作るのにな・・・」みたいなことを言ってたのを思い出して、急遽このイベントを「第一回心理療法の森」と冠するイベントにしてみた。
果たして第二回はあるのだろうか・・・。

肝心の研修会の内容としては、大変楽しかったし、私としてはとても満足している。

あえて感想を挙げるとすれば、
・壇上の模擬セラピストよりフロアの模擬患者のほうが臨床力が高く、殺す気満々
・ブリーフセラピストとCBTの人を比べて、前者の腕が良いということは、まるで無く、下手は下手なんだとフロアも安心した
・コンテンツとコンテキストを分割するという芸当ができるのは講師の中では若島さんだけ。まあでも、若島さんだけ年上で、ちょっとズルいけど。
・チラシに書いていた煽り文句が、全然嘘八百で笑えた。困難な面接場面を鮮やかに解決ちっともしないし、オープンダイアログはオープンでもダイアログでもないし、USPTも人格を統合しない
ということが面白かった。

いちおう京都大会のチラシも撒けたので、後援いただいた分ぐらいは幻の地方研修会としての役目も果たしたことだろう。
聴衆もわりとCBT系の人が多かったのもあって、「ブリーフセラピストって、別に腕がいいわけじゃないんだな。でも、会話の特有のもって回し方って、面白いな」みたいな感想を数人からもらった。

まあそんな感じでゴタゴタがあったわけだけど、研修会が大成功だったので、今となっては特に思うところはない。
思うところはないのだけれど、なんと言うか、神村先生がブリーフサイコセラピー学会を辞めるに至ったゴタゴタも、だいたいこんな感じだったのではないかと推察はできた。




さて、長い前置きを挟んで、今回の京都大会について。
私事ではあるのだけれど、クジで地元の自治会の役員になってしまい、その夏祭りの日程が完全にかぶっているということで、今回の京都大会は参加不可能だった。
私は当日はメインわたがしを作る役だったので、YouTubeで世界のスペシャルわたがし映像などを観て予習に余念がなかった。
よーし、お花の形のわたがし作るぞー!!

ところが、なんと、台風で夏祭りが中止になって、その後始末などには超忙しかったが、大会そのものには微かに参加できたので、ここに報告したいと思う。

まずは、「マインド・ボディ・リスニング 身体感覚に着目した心理面接の基礎訓練」という小関哲郎先生の発表を聞いた。
小関先生が九州でずっと行われている大学院生から若手にかけてのセラピストを対象とした勉強会で工夫と改良をしながら行われてきたワークのまとめだった。
私もちょうど同じぐらい長く、13年地方で勉強会をやってるので、結胸興味が湧いた

ざっくり言うと、
1, セラピストは自分の身体の声に耳を傾けましょう(フォーカシング的に)、そしてそれを言葉にしてみて、受け入れてみましょう(マインドフルネス的に)
2, セラピストは、自分の心の声に耳を傾けましょう。それがどうであれ、受け入れましょう(ネガティブ・ケイパビリティー的に)
3, それらの体験を会話に活かしましょう。自分の体と心に対して開かれている状態を保ちながら、相手の身体と心に対しても開かれた状態で会話しましょう(オープンダイアログ的に)
といった感じだった。コレによって臨床のセンスが磨かれるらしい。

んー、まあ、なんと言うか、、、小関先生はバッチリ安定している。walking congruenceだ。
そしてそれがこのようなトレーニングの賜物なのだとしたら、それはそれで確かに憧れる人も多かろう。

でも割とブリーフの人々ってセンス依存症というか、「センス」という言葉にこだわる人々の集まりというか、センスに呪われている気がする。
でも、CBTのバイジーの中にも「もっと私にセンスがあれば!」みたいなことを言う人はいるので、悩めるセラピストの中にはセンス依存症みたいになって、うまくいかないセラピーをセンスとかいう言葉に集約している人がいるというのは、まあそうなんだろう。
強いて言えば、そこに集約するということが、センスの無さなんだろうけどw、、みたいに、ある/なしの二元的に使われるのがセンスという言葉の嫌なところだ。

しかし私は自分であれ他人であれ、臨床にセンスというものを感じることもなければ、特段使う意義も感じないのでセンスという言葉を使う事もない(多分私にはセンスが無いから判らないのでしょうが)。
それは、無意識や、人格や、魂や、自己愛や、運命をまるで感じないのと同じことだ。
私の自己愛的な人格のせいで無意識に魂が感じるのを拒否している運命なのかも知れないけれど、そーゆー言葉遊び的単語はどうでもいいと思ってしまう。

小関先生のトレーニングで、そのようなセンス等々へのこだわりや呪いから逃れて、身体的にも一致した言語、というか普通の言葉で普通の会話ができるようになれば、センスがあればあるなりに、無ければ無いなりに、その人本来の力が発揮できるようになって良いんじゃないかと思う。
でも、それは、まあなんというか、、、普通のマインドフルネスだよね。
マインドフルな状態というのは、ごちゃごちゃしたこだわりに邪魔されずに、自分の素の実力が発揮される状態と言える。
ただ、確かにマインドフルネストレーニングは情動や身体性や動作において言及されがちで、(下手したら『落ち着く方法』ぐらいの勢いでリラクセーション扱いされているが)、「マインドフルネスに会話する」ということについてはあまり言われていないかも。
でも、まあ、一緒だろうとも思う。

繰り返しになるけどセラピーというのは、とかくセラピストの邪念や妄想に邪魔され続けるものだ。
「ああしないと、こうしないと。もっとセンスの良いことを言わないと。この病気にはこの技法って言われてるし、技法の説明したいけど、ちゃんとクライアントの話聞けっても言われているから聞かないとだし、もう時間が無くなってきたし・・・」
みたいな感じで頭の中が忙しくって、クライアントの話をマトモに聞く隙がないぐらい。
セラピストは大体のところ、これまで習った技法や経験に阻害されて、まともに聴いたり考えたり喋ったりすることもできないぐらい、雑念の海にいるとも言える。
大学で臨床を教えている人というのはほとんどが超下手くそだし、眼の前のクライアントさんに基づかずに、そんな超下手くその教えに基づいてセラピーしたら、超下手くそにならざるを得ない。

マインドフルネストレーニングは、そういった頭の中の無駄な忙しさに対して拮抗する状態を作り出すから、その結果、身体的にも、音声的にも、思考的にも、素の状態でその人の思っていることが発揮しやすいと言うか、ちゃんと相手の話を聞いて反応できるようになる。まさに言行一致状態だ。
小関先生の言によると、取り立てて技法のトレーニングしなくても、この「自らを一致させて相手に活かす」作戦で、結構いい感じに面接が展開していくらしい。

ゆえに小関先生のトレーニングはセンスを高めると言うよりは、センスの発揮を邪魔する邪念をリセットする方法のように感じた。

まあ、それが出来て損はないと思うんだけれど、ある意味これは、セラピストのタイプに依るのかも知れないと思った。
小関先生のような“一致系セラピスト“は、わりとロジャースとか動作法とかオープンダイアローグとか好きなタイプで、何て言うんだろう・・・身心一如!みたいな感じで一貫性があってブレがない。
自分本体をセラピーの武器にできるタイプとも言える。

対するは”分割系セラピスト“で、これは、むしろセラピーの中で並行してディレクターみたいな人が別動しており、あーでもないこーでもないとシナリオを書いて進めていく。MRIとかCBTとか、理屈っぽい人はこっちっぽい?自分本体とかはない雰囲気。

・・・とか書きながら、Yes―Noで選んでいって、あなたに向いているのは○○系セラピーとか出てくれるアルゴリズムとかあったら、職業選択に便利だろうになーとか思ったりして遊ぶ。

結局の所、認知行動療法的には、トレーニングが臨床の基礎になった/なってない、センスが磨かれた/磨かれてないは、結果(アウトカムの向上)でしか判らないものだと思う。
いずれにせよ、アレコレ考えさせられる良い発表だった。



さて、次は大会企画シンポジウムの「おもてなしの教育 人のこころをつかむ所作(ふるまい)を教えるには」というプログラムに参加する。舞妓さん芸妓さんの教育システムに京都千年の歴史を垣間見て感心する。
また、病院に所属する僧侶が自らを「くずかごであれ」と思ってある佇まいにも感心した。
あとは唐津さんがねずみ男ハラスメントについて発表してて、まあなんと言うか、ケツの穴の小ささに同族嫌悪を抱くww

で、総会。ブリーフサイコセラピー学会では総会にお弁当が出るということで、参加することになる。もちろんお弁当は予約していなかったけど、予約したけど食べない人のを譲ってもらう。
お金がいっぱい余ってて、税理士に注意を受けてるんだ~会員に還元しないとなんだ~みたいな話をされていて、「それは単に年会費や大会参加費を何年か安くすればいいだけじゃん」と思うが、学会としてはたくさん地方研修をして、あわよくば会員を増やしたいらしい。
現実検討能力がないのか、現実から目を逸らせたいのかどちらかは判らないけれど、まあ私と関係ないところで、お好きに・・・と思う。

最後は「平成生まれのブリーフセラピー ~若手は現場で何を生かすか~」というプログラムに参加する。
もう平成生まれは30歳なのね・・・ていうか、新元号になったら、昭和からすると明治生まれ扱いポジション?!・・・などと昭和のおっさんは感じ入る。
よくよく見るとフロアにも平成生まれと思しき人々が多く、なんともフレッシュな会場だ。

トップバッターの横尾晴香さんは、スクールカウンセラーについてのご発表の中で、自らのコンプレックスと感じていた弱みを、逆に強みとして活かして仕事している、みたいな発表で、なんとも若さを感じた。
そして若さを感じた時点で自分のおっさん度がむしろ上がった気がした。

続いての飯田大輔さんは、カッコいいプレゼンアプリを使って、無駄にシャツの前をはだけさせながら、組織の中で心理として身を立てていく上で使える自分のリソースについて述べる。
看護師とのダブルライセンスが、医療機関において弁えるとこを弁えて、ポジション築くための行動取れるみたい話しされる。
シャツははだけているケド、なんだかカッコいい。

続いての宮尾亮子さんは、外部EAPというもう既に英語とか入って外資の匂いがする今風な仕事をされていて、そこに勤めるようになった経緯からも、自分の強みを生かしていく最適な職場を選ぶという事も含めて、エネルギッシュな発表をされる。
「セラピストでありながらもビジネスマンとして!」というパワーワードもなんだかカッコいい。
まあでも、コンサル系の人々がでっち上げる数々の営業トーク用データとか、たいてい嘘っぱちだから、あの業界にいると言葉がやくざになってくるし、気をつけて欲しいなーとは思う。

最後の室屋賢士さんは、若者サポートステーションという引きこもり・就労支援のサービス機関での働きにおける自分のリソースについて述べられる。
コレは、よく考えるとアレか。和歌山勢のところかwじゃああんまり遠慮はいらないと言うかw
発表で印象に残っているのは、連れてこられてるので「クライアントには来談動機がない、前熟考期だ」みたいな、うまくいかない理由を自分の腕のせいにしないところで、これはセラピストの精神衛生上素晴らしいリソースだと思った。
あとは「感情がない」というのをリソースとしては捉えておられてなかったところ。若干ケースの話があったのだけれど、その展開にはセラピストの「感情のなさ」が良い感じに作用しているような気がするんだけどな・・・。

指定討論の田中ひな子さんが、「それぞれの発表の仕事内容は昔なかったから、そこからして平成感ある」みたいなことを言いつつ、それぞれが若いとか、リソース素晴らしいとか、当たり障りの無いことを言ってる。まさにほめっせーじだ。

私の感想としては、で?という言葉に尽きる。

結局そのように自分のリソースを用いたことで、得られた真のアウトカムであるところの介入成績が示されないから、CBTとして見るとそれが良いかどうか判断のしようがないのよね。
例えば学校であれば不登校児の教室復帰率がどれほどなのか、病院であれば特定の疾患における介入成績がどれほどなのか、外部EAPであれば関わった職場における復職率とそれで節約できたお金は幾らなのか、就労・引きこもり支援であれば対人的関わりの増加や就労率はどれだけなのか。
介入に関わる全体の成績でしか、何かが良いかどうかの判断つかない。
ちゃんと効果的、効率的なのか、リソースが活かせたと言えるのかどうか、それは介入成績でのみ判ることだと思う。
例えば横尾さんが学校の不登校児15人に関わって、15人共教室復帰するか別の良い環境を手に入れることができてQOLが改善していたとすれば、リソースを活かした意味があるし、誰一人として対して良くならずに卒業を迎えるばかりだけれど、「でも先生には励まされました」とリップサービスしてくれただけなら、それをリソースを活かしたと果たして言うんだろうか?
言い換えれば、リソースが己に向いているというのであれば、そんな発表には臨床的には何の意味もないのだ。リソースの活かし先はいつだってクライアントさんなのだから。

それはしかし、ブリーフセラピー学会における発表のほぼ全てがパブリケーション・バイアス(上手くいった人だけ発表)だから、その文化のもとで若い人たちがそう学んできたのは仕方ないのかも知れない。

たまたま私は個人的にスクールカウンセラーも、医療機関での臨床も、就労支援や引きこもり対策も、外部EAPも全部やったことあるので、とても面白い発表だった。
全部やったことあるし、当然全部アウトカムを出してきている。
だからこそ、彼らのリソースを活かした介入というもののアウトカムがいったいどれほどなのか知りたくなったとも言える。

ここは一つ、「悪の魔王CBT西川を倒すべく敢然と立ち向かった若きブリーフセラピスト勇者」的なシンポでもしてみるのが良いのだろうか?

果たしてブリーフ・パブリケーション・バイアス・セラピー(BPBT)学会は、社会に対してアカウンタビリティーを発揮できるのだろうか?
それともこのままセンスにこだわりながら、まぐれ当たりの大ホームラン発表をお互い褒め合いつつ、先細って死ぬのだろうか?

まあでも、そんな事言わない気楽な学会って所が、この学会の最大のリソースなのかも知れない。
何も傷つかないし、何も得られない。
ではなくて、得るために傷つく必要があるとか考えるのは、もうオールドファッションなことなのだ。
要するに今の時代のNarrativeに乗れていないのだ。昭和の男・・・。

そんなことを思いながら、帰路についたら、虹が出ていて綺麗だった。
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投稿者: 西川公平
2018-08-01 03:10

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