2016/04/29: 「触れたかどうだか、判らない」という訴えについて

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今回もマニアックなお話ですが、例えば強迫性障害の方で、汚染に関する恐怖心をお持ちの方などの中に、表題の通り「触れたかどうかがハッキリしない」という困りごとがあります。

手や肌などはもちろんなんですが、よくあるのはズボンのスソとか、袖のヒラっとしたところとか、そういった部分が汚染と感じている部分と擦れたかもしれないなどという訴えもその類に入ります。

例えば、電信柱を汚いと感じているとして、その横を通る時に注意して触れないように歩いているつもりなんだけれども、何となくズボンの裾が電柱にかすめたような気がする。
これらの訴えは、徐々に妄想チックになっていくこともあって、電柱のそばを通った時に、フッと向こうから汚いものが飛んできた気がする、であるとか、自分がふと目をそらしているうちに、無意識のうちに手が伸びて電柱を触ってしまっているような気がするとか、一瞬意識が途切れた隙に汚い所に飛び込んでしまったかも知れないとか、まあそんな感じになっていきます。

このような状態の時に、その下支えといて、妙な身体幻覚が存在することもあります。何かが飛んできてヒヤッとした感触とか、ピリッとした感触とか、少し熱くなった感触とか、そんなものを同時に感じることで、先の考えに確信が増している場合もあります。

手洗いを沢山している人たちに聞くと、「汚いものに触れたから、手を洗う」回数よりも、「汚いものに触れた“かも知れないと思った”から、手を洗う」回数の方が多い人が結構います。
平たく言えば汚くなっているかどうか、ハッキリしないけれど“念のために”洗うという事です。
別の言い方をすれば、同じ手を洗うという行為の機能において“汚さ“の強迫と”あいまいさ“の強迫の2つのラインが重複しているとも言えます。
手を洗う事で、汚い⇒キレイになると同時に、あいまい⇒ハッキリにもなるわけです。
うーん、マニアックだ。

この種の手洗いを放置していると、それなりにE/RP(曝露反応妨害法)しているのに、全然よくならないという事になります。それは治療者のターゲットが間違っているからです。

ACTじゃないんですが、そういう時にやっている行動実験があります。それは、「触れたかどうかわからない」という感覚を実際に作り出す実験です。
何でもいいんですが、モノをクライアントさんの手の上「置いたかおいていないかギリギリのところ」にかざして、質問します。
「今モノは、あなたの手に触れていますか?」
クライアントさんは答えます。「触れています」もしくは、「触れていません」
実際に触れさせて質問してみたり、微かに離して質問したり、いろいろ試します。どう試しても、どれだけギリギリであっても、クライアントさんは触れている時は「触れている」、触れていない時は「触れていない」とハッキリ答えます。躊躇も迷いもありません。

で、今度はクライアントさんにそのモノを渡して、「じゃあこれから、自分で触れたか触れていないか判らないという感覚を作ってみて下さい」と伝えます。
クライアントさんはあれこれ試しますが、“触れたか触れてないか判らない感覚“は作り得ません。
つまり、そんな感覚もそんな状況も本来ありもしないのです。

この実験から伝わると良いなと思うことは、
・「触れたか触れていないか判らない」現象は存在しない。
・「触れたか触れていないか判らない」は強迫観念
・「念のため洗っておこう」と考える事や洗う事は強迫行為

ちょっとだけ迷うのは
・「触れたか触れていないか判らない時は、手を洗わないようにしましょう」と示唆すべきかどうか。
そのような示唆を出しづらい理由は、皆さん判りますよね。

私が強迫の治療で言わないことの一つに「汚いんだ、もう汚れてしまったんだと思い込みましょう」というのがあって、これは、汚いか汚く無いかの路線で話をする事の無意味さから言わないことにしています。
強迫の治療とは、あくまでクライアントさんが治療方向に行動を生成していくことだけなので、セラピストが汚いとか汚くないとかに携わるのは愚にもつかないと思っています。

似たような文章が下記になります

残滓強迫について
http://cbtcenter.jp/blog/?itemid=348&catid=9#more


精神病的訴えから神経症的訴えへ
http://cbtcenter.jp/blog/?itemid=359&catid=9#more


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投稿者: 西川公平
2016-04-29 20:43
カテゴリー: 強迫性障害

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