2015/06/17: CBT Case Camp2015 in 大津を開催して  西川

去る2015/06/13-14と一泊二日で開催された認知行動療法の事例検討合宿であるCBT Case Campについて、思うところを書いてみます。

まず、イイところから。
私の好きな名文「仮名序」から冒頭の一節を紹介できたのが良かった。

*****
やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。
花に鳴く鴬、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。
****

うーん、何というか、趣味の世界だ。

会の運営について言えば、CBTセンターのスタッフをはじめ、ボランティアでいつもお手伝い頂いている方々が、すごくきびきびと動いておられたので、私は特にすることなく存在が消えてました。
例年余り過ぎていた懇親会の料理も、私が手配しない事で大体丁度の量に収まる事となりました。
どうしても話さなくてはいけない時も、私の言葉に注意が払われ過ぎないように腐心した。
それが証拠に研修会を主宰中、一度も名刺を交換せずに済んだ。それはとてもめでたい事だと言える。

中華思想に「政治なんてものは為政者の存在を感じさせたらあかんのだ」というのがあるけど、まあそんな感じ。
来年は「あー、そんな人居たかね」って言われるようにしたいです。


今年で4回目となるCBT Case Campですが、過去最高の盛り上がりを見せたというか、盛り上がったというかディスカッションが成立していたというか、成立していたというかとにかく参加者全員がいちばん喋った会だったのではないかと思います。
CBT Case Campは参加している人の誰もがお喋りを楽しめる会であって欲しいと、なんやかんや工夫をしているところがあるので、この結果は嬉しいものでした。
事前には、CBT歴や臨床歴が長い/短いグループはディスカッションが成立しないかもと危惧してましたが、全くそんなことも無く、準備していた特殊な制御もあまり必要ありませんでした。
CBT/臨床歴が短いグループでもディスカッションが成立していたのは、参加者の皆さんのモチベーションが高かったのもあるけれど、事例報告された先生方が割とフレッシュな方々で、身近に感じられた御蔭もあるのではないかと思います。

CBT歴が長いグループでもディスカッションが成立していたのは、そんなにCBT歴が長い人が来ていなかったからだと思います。
認知・行動療法学会では中級研修会という行動療法士の集まりがあるけど、そこはお歴々の集まりで、ディスカッションは全く成立しません。何回も出たことがあけれど、ホントに一回も成立してません。これは歴ばかり高くてもはや修正不能になっている悲しい図だと思う。

今のところ、CBTを学ぼうとすれば、本を読むか、研修を受けるか、ほぼその二つの方法しかありません。つまりCBTは対話によって習得されているわけではないのです。「対話ではないもの」で学んで後、クライアントさんと対話しようとするのだから、そもそも無理があると思います。
まあじゃあ対話の場を用意しましょうかというのがCBT Case Campだとも言えますねえ。


そんなこともあって、今回初の試みでロールプレイを取り入れてみました。CBTはあんまりロールプレイとかしないので、ずいぶん手探り状態でしたが、ロールプレイの経験豊富なオープンダイアログの白木さんに準備段階から本番まであれこれお世話になったのには、かなり感謝してます。

ロールプレイは思いのほかよくて、ディスカッションで語られたことがロールプレイで活かされ、ロールプレイで語られたことがディスカッションに活かされるという、まさかの連係プレイを見せてました。
まさに「学而時習之、不亦説乎(物事を学び、それを使用する。なんと楽しいことか。)」という感じでした。
「有朋自遠方来、不亦楽乎(友達が遠くからやってきてくれる、なんと嬉しいことか。)」とあわせてCase Campの喜び楽しみと言えるでしょう。

中華思想ばかりで恐縮ですが
「学而不思則罔、思而不学則殆(学ぶだけで自分で考えないと真の知識は身につかない。自分で考えるだけで師から学ばなければ、(独断・独善となり)危険だ」
という言葉もあります。

学んだり、ディスカッションしたり、ロールプレイしたり、そしてまた学んで、持ち帰って使ってみて、・・・と連綿と続けることができれば、皆それなりに小マシになっていくのではなかろうかと思います。


そういえば一日目のロールプレイの締めを白木さんにやってもらって、その一つのキーワードが「Not knowing」でした。
これとソクラテスの「無知の知」との異同について取り沙汰されてたので、個人的に思う事を少しだけ。

ソクラテスの無知の知は基本的に弁論テクニックとして使用されている気がする。
相手に知ってもらうために、あえてこっちが知ってても知らんという風に誘導することも可。

Not knowingは白木先生の文脈から察するに、セラピストの姿勢や態度の事だと思います。
ちなみにしつこく中華思想で言えば
「誨女知之乎、知之為知之、不知為不知、是知也(知ってる事を知ってるとし、知らない事を知らないとするのが、知るって事だよ)」
という言葉があります。

それらの真の意味はさておき、セラピストの中に「判らないな」という感覚が浮かぶことが、初学者にとっては「セラピストとして恥だ」という感覚があるのだと思います。
「完全無欠のロックンローラー」みたいなマッチョセラピストを自分に課していると、自分が単なるアホっぽい人だってことがバレない様にするのになんだか疲れちゃうので、クライアントとの関係性を平らにして、お互いが知恵を出し合う感じでやっていきましょうよというのがNot knowing的な態度なのかと思います。


ついでに言えば、ロールプレイはロールの椅子に座るまで何一つ考えてなくても、始まれば自動的に何とかなるのが、準備が楽で素晴らしいと思う。特に長浜赤十字病院の年若い看護師さんがイイ感じの発言をされていて、皆が感動した。

「先行其言、而後従之(まず言いたい事柄を実行し、その後自分の主張を述べる)」
という言葉がありますが、事例検討とディスカッションだけだと変な批評家気取りになっちゃう危険性があるので、「言うな、まずヤレよ」の精神で。

実際研修のアンケートにに、「ディスカッションでは批評していた自分が、いざロールプレイになるとぐだぐだなのが、逆に良かった」という名文を書いた人がいて、さもありなんと思う。
そんなわけでCBTの研鑽において、今後もロールプレイを取り入れていきたいものだと思います。むしろロールプレイだけで合宿してもいいぐらい。楽だし。

とりあえずは認知・行動療法学会in仙台で「ロールプレイで学ぶCBTの話の進め方」というワークショップをする予定なので、皆さんお越しください(宣伝)。
私事として、今年一年ぐらいはこのロールプレイという芸風をもてあそんですごしたいと思っています。


近くの喫茶店で中国茶などを飲みながら書いたら、思いのほか中華思想に毒されてしまいました。今度はコーヒーを飲みながらブラジリアンな文章を書くことにしよう。



そう言えば、ケースキャンプは事例検討なども行われていたので、蛇足ついでに多少の雑感を述べてみようと思います。

小松さんの発表は、セラピストと面接構造がとてもゆるく、雰囲気良く面接して疲れないためにも、面接回数を稼ぐためにも、良いやり方かと思います。
ただ、セラピストの都合に付き合わざるを得ないクライアントも辛抱強い事かと思いました。
そろそろ治療を開始してもいい頃合いかと思うので、今回色々出た意見をもとに、クライアントさんと実直に話し合ってみて欲しいです。
「事例発表したらこんなことを言われた」と、ぶっちゃけ全部言ってみたらいいんじゃないかな。
セラピストにとって心地良い面接にならないかもしれないけど。


稲垣さんの発表は診断についての話題提供?教育講演?みたいな話でした。
まあなんというか、常識的な話なので特筆すべきところはないですが、願わくば臨床を開始する前からそういった知識を身に着けておいて欲しいものだと思います。
要はアルゴリズム思考というか、数的思考というものに慣れているかどうかが、「心というものは数えられない」心理に対してどう取り入れられるのか、唾棄されるのか、それは参加者の臨床が今後どう変化したかによってしか判らないですね。


松本さんの発表は、初めてにしてはそれなりにまとまってた感じがしますが、きっと事前準備が大変だったでしょう。
私的には随伴性をセッティングする時の強化子の配置がもうちょっと工夫し処ありそうですが、まあ、初めてって事で。
話題になっていた「双極性障害のクライアントさんに抗うつ薬が入っている」件は心理が医師の投薬に物申す事案のプライオリティーNo.1な気がします。
これを機会に精神科医が双極の除外診断をしてくれるとか、薬理作用について知っているとか、患者さんに説明してくれるとかいう珍妙な期待は捨てて、そういうのは無いものとして面接されるのが良いかと思います。
別に二重に聴取/説明したっていいんですし。


上村さんの発表は、ずいぶんしっかりとまとまっていて、とても初めてとは思えない感じでしたが、そこはかとなく原井さんの匂いがしました(笑)。
「気負って」いる男性の、気負いを何とかするのではなく、別の習慣を構築するというのがいかにも行動療法らしいですが、解決に貴賤は無いですしね。
まあしかし、自分の仮説を捨てさって、別の路線に乗り換えるという事は、きっぷがイイというかなかなか学んでできるようになる事ではないですね。

何年も間違った路線の人もいれば、どこかに出して誰かに修正してもらう人もいれば、3秒で捨てちゃう人もいると思いますが、ある意味仮説というのは自分の分身みたいなものなので、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もアレですかね。


佐藤さんの発表は、事務局の不手際で音声の聞き取りづらさが発生して、誠に申し訳ありませんでした。
佐藤さんの発表を見ていると、キャッチする力の大きさと、構築する力や発信する力の小ささが釣り合っていないバランスの悪さを感じます。
まあでも、キャッチできてないとどうにもならないので、残りはおいおい修行して頂くという事で。


岡本さんの発表は、それなりにまとまっていて、それなりに良かったという感じがあります。
地味に力をつけてきている感じが、ウサギとカメのカメ的な雰囲気でした。
強がっている男性の「強がり」も、その背景にあるビビりなところも、上手く本人が受け入れられればよいという、普通の認知療法が効きそうなところ。


ついでのついでに、ロールプレイについても書くと、一日目のロールプレイは皆さんに話してもらえる時間がたくさん取れて良かったです。
反面、模擬面接の時間が20分とタイトだったので、白木さんに2つともお願い(無茶振り)する事態になって、それはそれでイイもんみれて良かったなあと思います。
二日目のロールプレイは、模擬面接の時間を取って、セラピーが停滞したと私が感じたら、止めてセラピストを交代していくという、くじびきチェンジ模擬面接でした。
柔道で言うところの乱捕りですかね。
前で私がくじを引く瞬間のフロアの緊張感と、名前を呼ばれた方の絶望的な悲鳴が楽しかったです。
最後はしゃーなしに、私が誰の参考にもならなさそうな感じで締めました。詰将棋。


研修会に参加しながら私が感じていたのは、意外と「言葉ってむなしいなあ」という感じでした。

色々な人が色々な言葉を用いているのを横目でみながら、「私って、あんまり人に伝えたい言葉って持ち合わせがないなあ・・・」と思います。
特段「コレが言いたい!」ってな言葉が無くって、本も書けない。

言葉って大事とか言っておきながら。
アンヘドニアですかね?

まあでも、ホント良い事例検討合宿となりました。これは全く謙遜とかではなく、私以外の皆様のおかげです。
私にとって教育とは、何かを述べる事とかではなく、場を提供する事なのかもしれない。
学習とはすなわち環境の事だと、孟母も引越してた。


そんなわけで、載せ損ねた方丈記の冒頭で締めたいと思います(趣味。

*****
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶ泡沫は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある人と、栖とまたかくのごとし。

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或は去年焼けて、今年作れり。或は大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。
所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。
また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主と栖と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。
残るといへども朝日に枯れぬ。
或は花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども夕を待つ事なし。
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投稿者: 西川公平
2015-06-17 16:07

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