2013/04/22: 東日本催眠療法研究会第12回研修会 参加記

4月20-21日東京医科歯科大学で東日本催眠療法研究会第12回研修会「シリーズめからうろこ 2」に参加して来ました。
講師は中島央先生でした。
先生の催眠はなにげない会話を中心としたもので、催眠を意識しない催眠です。

これで催眠系のワークショップは8日ぐらい参加した事になります。
その昔行動療法でも催眠を教えていたそうですが、今日日流行んないということで、知識の伝授が廃れていった経緯があります。
そんなわけで、別途習得しないといけないハメになるのです。

トウサイケン、中島先生の催眠ワークショップ参加は2回目という事で、結構顔馴染みの人もできてきた感じがあります。CBTの人もちらほらいたりして、研修に金や顔を出す人って少ないパイなんだなあと思ったりしました。

ワークショップ一日目は何をやって、二日目は何をやったとさっくり説明し辛い感じではあるので、いっそ「中島催眠というものはどんな風に見えるのか」について書いてみたいと思います。

中島催眠というのは、進行方向がほとんど規定されません。
およそ心理面接は言語的なやり取りで進行していくもので、中島催眠でもそれはそうなのですが、明白な治療的方向を持っていません。
また特徴として、面接における言語的なやり取りとパラレルに、様々な多面的交流がなされており、特に言語的ではない部分がセラピーを動かす部分に大いに注意を払っているというものがあります。

介入をざっとした流れで言えば、
1、言語的/非言語的なメッセージを患者さんが発した時、そのメッセージをキャッチして、自分の興味の湧くところに素直に反応し具体化する。
2、その際『これにこう反応すべきなのだ』のようなヒトの取り決め事には縛られないようにする。
3,その結果として、患者さんに過剰にかかっていた規範のようなものの軛がゆるみ、患者さんがその持てる力でそれなりにどちらかに向かって動けるようになる。
という感じです。
どちらかと言えば、これは解催眠に近いような方から入って、結び目が緩んで、ハイおしまい、という感じです。

しかし「指向性の無い」という状態/反応を返すということで、およそ何らかセラピストの欲というか、決め事というか、人としての規範というか、そういったものを持たないことはなかなかに難しいことだと思います。
このような無目的性をキープしつつ、反応に肯定的に興味を持って返すという事は、ある種究極の自己一致のもとでなされる究極のフリーオペラントかもしれません。

仲良くなった催眠系の参加者の何人かに「認知行動療法において催眠をどう活用するの?」みたいない質問を受けました。
それは認知行動療法のような、いわば目標に対してRigidなセラピーから出現する結果が、必ずしもRigidではないという事がひとつの答えになります。というより、当たり前ですがCBTにおいて扱って良くなる事象(想定内変化)より、扱わずに良くなる事象(想定外変化)のほうが圧倒的に多いのです。
それはいわゆる般化の場合もありますが、般化の枠を超えたものもあります。

例えば手洗いが多すぎるヒトの手洗い回数をカウントして、それはそれで減っていきつつ、扱ってもいない別の何か(前はできなかったのに友達を映画に誘えるようになる)が変化するということが往々にしてあります。
対象者の健康度合いが高いようなセラピーの場(大学の心理相談室や産業カウンセリング、スクールカウンセリングなど)では、ごく限局された介入が、殆どすべての問題解決になるという事も多いわけです。

特に子供は本質的にCBTを受け付けないというか、設定した変化では考えられないFlexibleな変化が起こり、勝手に良くなることが多いです。もし想定内の変化を起こすことがCBTの成功なら、子供のCBTは全て失敗といってもいいぐらい、様々な部分がすぐに良い変化を起こします。


話はそれましたが、中島催眠はそういった「勝手に良くなっていく部分」に対する働きかけについて試みたものであり、しかもそれは良くしようという意図や算段から外れた部分で起こってくるわけですから、意地悪な言い方をすれば『そのことを特に考えなくても良い』のかもしれません。
ここに難しい禅問答が発生してきます。
「相手に良い変化を引き起こそうと意図して狙ってはいけない。そうすれば(ナチュラルな?)良い変化は起こらない」
が真だとして、
「(ナチュラルな)良い変化を引き起こすために、あえて良い変化を引き起こそうと狙わない」
ということをしたとしても、それはつまり狙っているという矛盾です。

結局のところ
「良い変化が起こるとか起こらないとかに興味を持たない」
ということに近いことをしないといけない。

かといって、良い変化を引き起こそうとか、引き起こさないとか、そういう狙いや意図そのものからフリーでいれれば、想定外の変化が起こるべくして起こるとすれば、先に書いたように「そのことを考えなくても良い」。


しかし、ふと思ったのですが、不幸にして反転系の関係が結ばれてしまった場合にはこういうアプローチのほうがむしろいいかもという気がした。
反転系とは、こちらの治療的な働きかけがむしろ症状の維持悪化を招くしか無い、というようなこじれた治療者-患者関係のことです。
昔はそういう風にまずい関係になることもたまにあって、今ではあんまり無いけれど、そういう場合に確かにプロンプト放棄することがあって、意外と放棄したままのほうがよい風に移行していたような気がする。

「わたしの思う方向にこの人が良くなるというセラピストの欲は諦めて、ただこの人の前でわたしとしてあり続けよう」
そんなことを思って無心に刺激と反応を返していくと、案外と結び目が解けるもんだと思う。
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投稿者: 西川公平
2013-04-22 12:20

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