2013/02/12: 行動療法コロキウム’2012 信州美ケ原に参加して

毎度のことですが、行動療法学会が開催する事例検討合宿である「行動療法コロキウム」に参加してきました。
臨床についていろいろな先生と話をする会で、なかなか盛況でした。

私の発表は三日目で、三日目の発表は私だけという、ちょっとどういうポジションなのかを測りかねる感じではありました。

初日は2ケースありました。片方はうつ病のケースでしたがおおよそ自然治癒で、もう片方は強迫性障害で結局未治療のままという感じでした。
うーん、可哀そうになあ・・・。面接においてあんまり治療が成立した経験がないんだろうなあ・・・と、ぼんやり考えながら聞いていました。
しかしまあ、ものは考えようというか、どちらの先生もまだ臨床経験的にはこれからの人達なので、いい感じの人に1から教えてもらう機会を持てば、全然伸びゆく感じなのではないでしょうか?
お二人が今もし誰かに習っているのだとすれば、その先生からは一目散に逃げ出した方がいいですが。

そんな感じでとりあえずメインステージである懇親会へ。
懇親会では特に何を話したという記憶もないですが、まずは認知療法における事例検討合宿(後述)の宣伝や相談をしたり、バッタもののCBTセンターの噂を方々から耳にしたりと、まあそんな感じだったのではないかと思います。
あ、あと院生さんと恋バナしてたのが楽しかったですね。

二日目は4ケースありました。
良いほうの印象として、岡嶋先生は相変わらず達者にセラピーをしていて、発表もなかなかまとまっていたので、おぉ・・と思いました。催眠については触れないでおきましたw
あと、広島あたりの先生が小ましな感じでされていて、まあこれはぼちぼちセラピストと言えるのではなかろうかという感じでした。

悪いほうの印象としては、引きこもりの先生が、絶望的なプレゼンをしていて「・・・・・・・・・・・」という感じで、コメントするのもちょっと無理でした。フロアの空気がどよーんとなっていました。
実は同い年なのですが、何というか、自らが臨床的に研鑽を積む環境をうまく作れないままに来てしまったという雰囲気でしたかね。

強迫のケースを出された先生が、いささか行動療法を勘違いされながらも、それでいて持味というか、健気というか、一生懸命やっておられるのが、ある意味印象深かったです。
ちょっとコメントしてみたところ、詰めて話をすることで却って良くなさそうだったので、素早く撤退しました。


その後は、なんというか、ロートルの回想法みたいなプログラムがあって、私の発表が二日目で、このプログラムが三日目なら三日目は長野観光に出かけられるのにな~と残念に思いました。
しかしながら、それぞれの先生の事はわりと好きでもあるので、個人的には面白く聞けました。
印象に残っているのは鈴木先生の、「次があるというのは前提ではない」という言葉で、悲しいかな我々の成長は犠牲の基づいているという事実があるなあと思いました。
それにしても事務局の高橋先生がずいぶん上手にインタビュアーをされていたのが印象的でした。

そんなこんなで二日目のメインプログラムである懇親会が始まりました。
司会の伊藤先生の御好意もあって、コメンテーターの原井先生も交えてどんな感じの発表にするかということを検討しました。
発表内容はもう決定しているわけですから戦術面の話ではなく、文脈適合性をどうするかという、要するにまとまっていない言い訳をそれっぽく述べつつ、誰にケンカを売るのかという戦略面のお話について相談に乗ってもらいながら話を膨らませて、まあ“非機能的機能分析報告行動“という鼻につくわバカっぽい行動を揶揄する方向性に自分の中で決まりました。

「10の機能分析の歪み」とかも考えたんですが、認知の歪みとまったく同じになったし、時間の都合上割愛されました。
その後は、「非機能的機能分析報告行動の機能について帰納法で語ろうと昨日思いついたんだけど、・・・」と噛まずに喋るための練習を15分ほどした後、翌朝に備えて眠りました。

発表そのものは、それなりにウケていてよかったのではないかと思います。
事例も発表もフロアもコントロール内にあり、質疑ではのらりくらりとしょうも無いことを述べて、つつがなく成功裏に終わりました。
終わってからもフロアでなんだかんだ喋ったり、旅館のフロントでがめつくフィードバック希求行動をとったりして、自分の中で中和化を図ったりしていました。


さて、今回の発表で言いたかったことは、幾つかありました。
ひとつは、先にも書きましたが、機能分析報告行動は大抵たわごとに過ぎないということです。
そういった随伴性をねつ造しているのは誤ったSVと言わざるをえません。

「機能分析が流動的で移ろうものである」というテーゼに従ってばっちりコメントをいただいたのは鈴木先生で、一見患者さんがDelayをかけている(機能分析1)ような反応を出したことを、再分析の結果(機能分析2)ある意味治療上のリソースとして利用することにしたという分析の変化をクリアに指摘していただき、きめられた設定内でベストな応答を返すというところがさすがに臨床家だなと思いました。機能分析2も怪しいんじゃないかという岡嶋先生の指摘に関しては、そうとしか言えないですが、それこそあの瞬間の私の限界なんでしょう。

その岡嶋先生からも優しくも感覚的なフォローを頂いて、催眠とか言い出したらどう処理しようか焦りましたが、そこも控えていただいてw、でもある意味臨床の技術という側面に対して一番ディスカッションするべき「やり取りにおけるテクニック」の所をコメントしようと頑張っていただいたので良かったです。もう少し曝露の合間の一見雑談に見える部分に「下手に随伴性を形成する」という分化強化を山盛り入れているあたりをクリアに指摘していただいてもよかったかと思いますが。
でも、行動療法コロキウムが、臨床のテクニカルな部分をディスカッションできるような場でないこともまた事実です。それは、時間が足りないからという楽観的なものの見方もありますが、現実的にはそこまで突っ込んで話できる人がほとんどいないという悲観的な方がどうやら事実のようだと感じます。そしてその認知が私を悲しくさせます。

コメンテーターの原井先生がいつもの原井節を遺憾なく発揮して、フロアとの対立構造を作り、それに私を巻き込む形でディスカッションが停滞したことは、いささか戦略ミスなのではないかと思いました。「毎回同じ議論になる」ということは、つまり予測がつくわけで、避けることが可能だったと思います。ああいったやり取りがどのような機能なのか、何がブレイクスルーになるのか、私とは関係ないところでやってほしいと思います。

まあでも、「自分がされて嫌なことは患者さんにしてはいけない」っていうのは、偏食のお母さんが子供を栄養失調にしちゃう危険性みたいなルール支配ですね。議論を続けたいわけでは全くなかったので、終了させるべくありきたりな返事しましたけど。
たしか、「患者さんの生活改善を考えて、最も汎化力のあると思うのであれば、メリットとデメリットを勘案してエクスポージャーを行う。同意と生活にお役立ちかどうかが唯一の判断材料」みたいなこと言ったんだったかな。
でもその言葉の内容は確かにそうかもしれないけど、言葉の機能は「おしまい」でしかないんです。
「言葉の内容と、言葉の機能は違うんです」と、いま目の前で示しているのを判ってほしいと思って、違う人の似たような質問に対して、わざわざ違う言葉「二人とも喫煙者でよかったですね〜」に、同じ「おしまい」の機能を持たせて応答してみたんです。(トポグラフィーは違うけど同じクラス)
それが事例報告の中でやっていた、言葉の内容と機能を全く別個にとらえつつ、それぞれ同時に展開しているというのと同じなんです。
誰かこのマニアックな世界を判ってほしい。
まあでも、この「機能をとらえる視点」が行動療法で、「内容をとらえる視点」が認知療法だとしたら、両方の視点を同時展開できる人を認知行動療法家というのでしょうが、あんまりそんな人見ないですね。
コロキウムの発表は認知療法から精神分析まで、ほぼ内容ばっかりで、機能について話ができない。なんせ発表・コメントしている人達で自分の発言の機能がわかってないんだから、面接でだって同じことでしょうに。
いずれにせよ、CBTセンターと言うのは伊達や酔狂で名乗っているのもありますが、一応その両方の側面から無矛盾なくパラレルに治療を展開できる人材の育成を目指しているからCBTセンターなわけであって、そうでない所がCBTセンターを名乗るのはおこがましいというかバッタもんなわけです。
でも、行動療法学会から、一般社団法人行動療法・認知行動療法学会に名称変更したら、できる人もぐんと増えるのかもしれないですねwwwww

さて、「こんな臨床は熟練者だからできることで、初学者は真似しないでマニュアルに沿って治療を展開した方がよい」という意見が出ました。
自分の不安の言い訳に初学者を利用されても・・・と「初学者word添付行動」の機能に呆れてスルーしましたが、今思えば、「私は初学者で、不安です」と言っていたのかもしれませんね。悪いことした。
次からは、「あなたが初学者で、かつ不安なんですね」とド直球を返すことにします。

私が初学者に伝えたかったのは、こんな感じの事です。
「セラピーは会話であって朗読ではないので、いかなるフレーズも事前に準備せず、目の前の患者さんと共同で作り上げなければいけない」
「セラピーとは将棋のようなものなので、一手一手に意味があり、もちろん好手もあれば悪手もあり、それでいてきっちり詰めていかなければならない。“詰めろ”をかけずに王手をかけてはいけない」
「エクスポージャーが導入可能になるまで導入してはいけないし、導入可能であるのにグダグダ説明してはいけない。それは興をそぐ」
「患者さんは常に完璧な師匠なので、自分の妄想に巻き込まれずにキチンと言うことを聞いていれば、それなりに上達する」
みたいな感じです。
でもそれって言葉で言ってしまうと結構台無しな気もするんですよね。

そんな訳で、わざわざ「まとめることをしない」という戦略にでました。
なんか世の中はコンビニエンスな時代になって、何でも、判り易く、丁寧に、判るまで説明してもらえるのが当然の権利だとかスーパーバイジーに言われちゃうと、中年としてはやる気が失せてしまう。まあ、私は学費をもらっているわけではないので。

行動療法学会の多くの発表は、治療者の妄想発表会です。
発表にコメントしようと思ったら、まず治療者の妄想部分をさっぴいて、現実には何が起こっていたのかを探る必要性が出てきます。そこで、いったん自分でまとめておいてから、まとめの部分をすべて割愛するという非常に乱暴な事をしてみました。そうしたことでそれぞれの先生がそれぞれの立場で、目を曇らされることなく現象を見ることができると思ったのです。

やってみてわかったことは、「認知」の重要性でした。すなわち、機能分析に妄想しか書けない先生方や、それを真に受ける先生方は、実際目の当たりにしても自分の妄想に基づいて患者さんややり取りを受け取るのだなと思い、まさしく「世界は事実ではなくその受け止め方でできている」という事態でした。

第一世代における行動療法や行動分析の技術とは、結局のところ時間軸の技術です。
どのタイミングでアクションが生じ、どのタイミングでリアクションが生じるかの関係性が学習理論であり、究極的にいえば時間軸上のON/OFFの観点で臨床をとらえています。
フィードバックにどのような言葉を使用したかとかは、別にどうでもいいのです。
「すごいですね」と言おうが、目線を送ろうが、声のトーンを変えようが、うなづこうが、大差がない。
それよりは、いつどのタイミングで、フィードバックするか(もしくはしないか)ということの技術が、少なくとも第一世代におけるまっとうな行動療法と言えます。
第一世代の杉山先生はまっすぐそれに食いついてました。

第二世代とは、第一世代が大差ないとしたフィードバックの工夫に重点を置いています。
フィードバックの工夫とは、ある意味きらびやかで目立ちます。
事例報告後の感想においても、「**という言葉かけがよかった」「%%って返せばいいんですね」などというコメントをもらいました。それはそれでいいのですが、ほぼ修飾語の世界というか、認知療法の話です。

まあ、それはそれで追及することを、わたしは重要だと思っていますし、個人的にあれこれ工夫もしています。
行動療法と認知療法の関係を暮らしに例えてみると、前者が家であるとしたら、後者は家具やインテリア・エクステリアの関係に似ています。住まいを考えるときに家であることは前提ですが、中身の充実しない家にもまた住めません。
今日の精神療法で、認知療法の影響なしにセラピーをすることは全く不可能と言えるでしょうし、行動療法の構造を持っていなければ意味がないともいえるでしょう。
そしてそれは何の苦もなく併用できるものだと思います。行動療法だけの発表って、どこか頑丈な掘っ立て小屋を連想させます。

ちょうど司会をしてくれた伊藤先生という行動療法学会に1%もいる認知療法家とランチをしながら、言葉かけにおける意図性の相互作用みたいな話をしていたのですが、そういったデコレートな部分もまた楽しさの一つです。


さて、第三世代というのは、なんなのでしょう?第三世代は臨床にどのようなラベルを貼るのだろうとひそかに楽しみに発表していました。
フロアからのコメントに基づいて考察すると、第三世代とは、治療とはほぼ無関係の事柄です。
住まいのたとえで言えば、政権が民主党から自民党になったとか、市町村が合併したとか、ゴミの日が火曜から月曜になったとか、いちおう住むということに多少の影響を及ぼすものではありますが、本質的に暮らすということに直結したことではありません。
じゃあ、無意味じゃんということを言いたいのではなく、「直結していない」ということに意味があるという哲学・思想体系なのです。
ですから、第三世代を学ぶということは治療技法を学ぶということとはまったく違っています。

ある種の心構えというか、人生の舵とか、とかそういった類であり、第三世代を学べば学ぶほど、忠実に行えば行うほど治療成績が上がるようなものではありません。
しかし、真にそうだとしても、それで付いてくる人は居ないわけですから、方便として「治療成績向上」を仮に叫ばなくてはならないというのが、可哀そうというか、残念というか、自己矛盾なところはあります。



しかしまあ、なんでしょうね。コロキウムに参加していて思ったことは、いま私は年齢的にも中年期であり、壮年という言い方をすれば絶頂期でもあります。そういう意味では自分は折り返し地点付近におり、いくらかごまかしつつ延命できるにせよ、並居るロートル達のように、やがて衰えていくわけです。

命短士恋せよ乙女ではないですが・・・自分が望んだように、良い時期に良い臨床ができる環境を整えられたのは本当によかったと思っています。
そういったことこそが第三世代における価値に基づく行動なのだろうと思います。結果として治療成績が上がったようなことはあるにせよ。

で、これから、事業を拡大したり、育ゲーしたり、滋賀県の自殺率を下げたり、CBTを普及したり、ごくごく卑近なエリアで行いつつも、一方でどういう老後を過ごしたいかということを視野に入れつつ、近江商人の三方よしを実現するための方策について考えていかなきゃいけないんだなと思いました。

それもあって、という訳であるのか無いのか、私も地元で事例検討合宿を開催してみることにしました。
はてさて、どうなることやら
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投稿者: 西川公平
2013-02-12 16:19

Comments

Pomta on 2013/03/11 2013-03-11 22:38

「機能分析の歪み」とは、例えばどういったものですか?

gestaltgeseltz on 2013/03/21 2013-03-21 19:47

>Pomtaさん
下手くそなコメンテーターが「機能分析できてない」と叫ぶと、それっぽいこと言った感が出現する、事例検討上の機能不全のことです。
つまり、冗談です

Pomta on 2013/03/28 2013-03-28 15:17

>gestaltgeseltz 様
コメントありがとうございました!

鳥取の第4世代 on 2014/08/09 2014-08-09 08:59

ひょんなことからこの記事を拝見いたしました。
とても読み応えのある内容でしたので、コメントです(というかただの感想です)

>まあでも、この「機能をとらえる視点」が行動療法で、「内容をとらえる視点」が認知療法だとしたら、両方の視点を同時展開できる人を認知行動療法家というのでしょうが、あんまりそんな人見ないですね。

まさに、これができて認知行動療法家なんでしょうね。
自分自身はまだまだですが、臨床の中で、2つのABCで、患者さんの行動や自分自身の行動、患者さんと自分の関係をメタ的な視点で見ながらアセスメントと介入をしていくことがCBTだと思うようになりました。そしてそれを伝えようとは思っているんですが、どう伝えていいのか頭を悩ましていた今日この頃に、この記事を拝見して、なるほどと思った次第です。

そしてこうした臨床実践にはメタ的な視点が必須で、マインドフルネスなどは、セラピストの技術向上の筋トレ的にいいんでしょうね。

またブログ、楽しみにしておりますし、学会などでこのあたり聞かせてもらえたら嬉しいです。

gestaltgeseltz on 2014/09/18 2014-09-18 15:53

>鳥取の第4世代さん
コメントありがとうございます。

クライアントさんの述べたことを、「クライアントさんがそう述べた」と捉えることと、「述べた内容」を捉えることは、どちらも重要ですね。
マインドフルネスは、「今マインドフルネスじゃないなあ」ということが判ればそれでいいのであって、マインドフルネスを目指す限り、わけがわからない気がします。

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