2012/08/27: 日本ブリーフサイコセラピー学会 第22回神戸大会参加記

かねてから憧れのブリーフサイコセラピー学会に初参加してきました。

もうちょっと早く参加したかったのだが、近年なんとも遠い開催地ばかりで中々難しかったが、今年は神戸大会という事でいい感じに近かった。

参加してみて思ったのはブリーフサイコセラピーは、認知療法や行動療法と違って、特定の技法の学会ではないなという事。
要するに、短期に終わればよいので、そのための技法をどのようにするか、カウンセラーの心持をどのように置くかという、純粋な臨床的な発想から成り立っている。
そういう学会は、私のような臨床家にとってみて、気楽なもんだなというのが正直なところで、事実発表を聞いていても説明はしばしば説明になっておらず、まあ要するに治ればいいじゃん的なフランクさがある。

まあ、意地悪な事を言えば、「これじゃあ論文書けんよね」というか、CBTのように乱造することは到底無理っぽい気がした。臨床を忠実に頑張り過ぎて、なかなか言語化しづらい所にまで高度に技法が発展しており、却って言語で扱いづらそうな気もした。
でもその臨床の言語化難しい部分を中心の一つとして果敢に取り組んでいるという事はとても良い事だと思った。

あと、皆話が面白いうというか、笑いが必ず起きるというか、これは関西のノリなのか、学会のノリなのか判らんけど、話がお上手だなあという気がした。
服装なんかもフランクで、わざわざ大会の抄録集に「スーツ禁止!スーパークールビズで!」と書いてあるぐらいだ。

ブリーフでは話題提供される技法の幅も広く、なかなか認知行動療法の世界ではお目にかかれない技なども観れる。
もちろん技について説明する説明理論も豊富だ。
要するに何でもアリが共存している事が前提の学会な気がする。

さてさて、初日の1発目、朝の9時から私の発表があった。平日9時にはあまり人がおらず、ちょっと残念だったけれど、それはそれでこじんまりと出来たし、座長の中島央先生があれこれコメントくれたので、なかなか実りのある時間のようにも思えた。中島先生には「懐かしのJ.ヘイリーみたい」と言われたけど、まあ当時読んでいた本はMRIだからまるっきりそれだとも言えよう。

ブリーフセラピーとCBTというシンポジウムがあって、これは行動療法学会でも同様のシンポジウムが準備されているようだが、その共通点と差異について、神村先生、大野先生、岡嶋先生、菊池先生というCBTとブリーフに親和性のある4人の先生方が、面白いお話をしてくれた。
おそらくブリーフの先生方にとってみれば、CBTというのは面白みのないというか、色気のないというか、上手く時流に乗りやがってみたいな妬みと嫉みがあるのかもしれないが、4人の先生が巧いお話をされたので、ずいぶん株が上がったのではなかろうかと思う。
シンポの指定討論で森俊夫先生という方が「CBTとブリーフセラピーの決定的な差は、ホームワークの位置づけにある。CBTではホームワークを行うプロセスで治療というものが進行し、完成するという流れになっているが、ブリーフセラピーではセラピーによって完成した治療をホームワークで確認するという流れになっている。これは大きな違いだ」みたいなことを言っておられて、なかなか味のある発言だと思った。
思うにCBTでは場合によってホームワークをアセスメントとしても、治療のプロセスとしても、治療が済んだ確認としても使用することはあるが、確かにセラピールームにおいて完成させた治療の確認という感じではない。その分類ではEMDRはブリーフだ。
逆に物は言い様で言えば、CBTとはセラピールームでセラピストが余計な邪魔をしないために、患者さんのホームワークに投げているというか、信頼しているというか、まあそんな感じだと思う。

例えば催眠の名人である松原 慎先生が治療の中で一か所CBTのようなものを使っておられて、そこではIPさんと重要な他者のやり取りを分析するようなくだりがあった。松原先生はセラピールームの中で「こういったやり取りのどこをどうすればよいでしょうかね?」と誘導的発見を促されて、IPさんがやり取りの中で自分の言動を振り返って変更しようと気づく、まさしく認知再構成のプロセスだった。
その後松原先生は「こういうやり取りがあって、あなたはいつもこう反応されるんだけど、ここをこう変えるってされるんだね。じゃあこのやり取りの紙をお守りに持って帰ると良いよ」とお守りにされた。
このタイミングではセラピーは2回しかなかったので、それは無理もない事というか、とても巧みにされていると思うが、それは確かにCBT的なホームワークではない。
催眠もブリーフだと思うが、セラピールームでやり取りが完成しており、その完成を確かめ・思い出すために課題が設定されている。ブリーフの課題はカンペみたいなものだ。本質はすでに変わっており、ホームワークはそれを確かめる末節だ

要するにCBTではセラピールームで起こっていることは未完成のホームワークの予習であって、それをホームワークのお手本にして完成してもらう。CBTの課題は、穴あきのパズルみたいなものだ。
きっと「今後も揉め事が起こる時にこういったやり取りがあるだろうから、今日のこのやり取りと工夫を見本にして、他の揉め事のやり取りも紙に書いて整理して振り返って、どこか自分で変えたいところがあったら変えてみるようにしてみて下さい」とコラムを渡すというのがCBTにおける課題だ。末節から本質的に変えていこうとしている。

まあどっちが良いとかではなく、確かにブリーフとCBTでは課題におけるスタンスが違うなというお話。
どっちがいいかではないと言いつつ、若干CBTびいきの発言をしてみると、どうにも結局セラピールーム内でのセラピーというのは、もちろんセラピールーム内での平和を作り出すだろうとは思うが、それがすなわち患者さんのQOL向上に寄与するという証拠が無いというか、セラピーとして”セラピーが上手くいっている”に過ぎない気がする。
極端に言えば、CBTではセラピールームで全然うまくいかなくても、日常生活でうまくいけば良いし、それが目指す全てだと思う。
多分CBTが単純な作りになっているのは、そもそもセラピストが”患者さんその人”である事が前提な所にある。ブリーフがそれなりに複雑な理論や技法になっているのは、セラピストがが”治療者”だからだ。



話は変わって、そういえばブリーフは、少なくとも私が10年前に学んだ頃は「ゴリゴリ治してやるぜ」みたいなマッチョな状態だった気がする。(最初に見に行った勉強会が長谷川啓三先生のだったからかもしれんけど)
そこにナラティブだとか、システムズだとか入ってきた影響か、ポストモダンが染み入ってきたせいか、ゴリゴリだった人たちが年を取って丸くなったせいか、雰囲気空手から合気道へと変化してきているような気がする。
なんか、中島敦の『名人傳』じゃないけれど「弓の名手が、弓の達人になり、弓の仙人になり、最終的には弓を忘れる」話を思い出した。
ただ、思うのだけれど、そうやって日本のブリーフセラピーを引っ張ってきた人たちがかつてゴリゴリやってきた過去を思うと、結局最初はゴリゴリやらざるを得ないというか、そうして屍の山を築かないといけないのではないかなという気もする。
角を取るには患者さんとゴリゴリやりあう他の近道があるとも思えない。
ゴリゴリもできる人がしなくなるのと、最初からフニャフニャしてる人とは違う。そんなわけで若者は頑張れと思う。

事例については書けないので、発表内容には触れられないが、概要に触れてみる。
「条件反射制御療法」というちょっと行動療法に似ているけれど、説明がわけわからない治療法があった。
たぶんレスポンデントの消去を狙った治療なんだろうと思うんだけど、説明されたものと実際扱っているターゲットがまるで違うので、微妙にむず痒い感じでいろいろ質問して、説明してもらうのを諦めた。
自分で一回やってみて、自分で何が起こっているのか考えた方が早そうなので、ソレっぽい患者さんが来たら試してみようと思う。
またワークショップでは福井義一先生の「自我状態療法」というものを習った。
外在化の内在化というか、“セルフ心の会議室”みたいな感じで何とも楽しそうだし、簡便で機能的になっている事に好感を抱いた。
認知行動療法中心の私にとっては人格とか性格とか自我とかいうものが存在するかどうかはアレなんですが(個人的には確率と蓋然性の狭間ぐらいに思う)、ノリの良さそうな患者さんに使ってみたい。
認知療法だってよくよく考えればテーゼとアンチテーゼのネゴシエートでやっとるわけだし、それをもーちょっと大勢でやったとしても別に不便はあるまいと思う。
CBT風のコラムを作るとしたら、円卓というか、レーダーチャートみたいなものになるだろうなあ・・・。要するに先にコラムに鋳型を作っておいて、そこに流し込めば良いんだろう。

あとは、吉川悟先生と東豊先生の対談というのがあって、それも部外者的に楽しく訊かせてもらった。
吉川先生は一度お話をしたことがあって存じているけれど、東先生というのはほぼ初めて見たが、何というか桂枝雀みたいにセンシティブな雰囲気だった。
吉川先生はなんというかよく発達した常識とバランス感覚を持って対談されていた感じ。
対談の内容は、まあ臨床家の経年変化みたいな話だったような・・・。

John Winslade, 先生というカリフォルニア州立大学サンバーディノ校教授でSFAの人が基調講演をされて、まあなんというかナラティヴ・アプロ-チの基本的な話をされた。
まあなんというか看護師さんやPSWさんはナラティヴ・アプロ-チというのを意識して仕事をされると楽しいのではないだろうかと思う。心理士的には、認知療法とかと一緒で、普通だと思った。
しかし、いずれにせよ世界を股にかけて講演される方は、講演が上手だ。ついでに菊池先生の翻訳は上手だといつもながら感心する。

3日目のワークショップでは中島央先生と 津川秀夫先生のエリクソン催眠についてのワークに出た。
まあなんというか、治療者が前提を捨て去った上で、患者さんと簡単なやり取りをする感じで、前者が極端に難しく、後者が極端に簡単な事を習った。わたしも特定の前提の下では前提を捨て去ることは可能だろうが、誰にでもってのは今のところ難しい気がした。

もう一つ個人的に気が付いたのは、認知療法学会とか、行動療法学会とかは長らく行き過ぎていてそれなりに知り合いもしがらみも多く、ちょっと会釈量が増大しているというか、若干めんどくさいんだなというのが感想です。
しがらみの何もない会だからか、臨床中心の会だからか、ブリーフサイコセラピー学会はふつーに楽しいだけで飲み会なんかも気楽な感じで、ただの学ぶ人として参加できて満足した。
あと面白かったのは、ブリーフセラピーの人たちにとって、認知療法はわりと評判が悪く、行動療法はわりと評判が良いというのもあった。
認知療法なんて使い様で、良いも悪いも上手いもヘタも使用者次第なのにねえ。

あとは、大学の先生なのにそれなりに臨床が上手な人がいるというのも不思議な感じだった。
認知行動療法関連ではありえない現象だ。
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投稿者: 西川公平
2012-08-27 02:08

Comments

OKAJIMA on 2012/08/27 2012-08-27 08:15

 条件反射制御の仲間ができるのはうれしいですのでそれについて,一言。行動分析だと阻止の随伴性で負の弁別刺激設定を置き換えることができます。設定が完了した患者さんがおっしゃることは,レスポンデント消去以上(外)のホッとする,スーッとするなど阻止の随伴性が生じています。つまりは強迫儀式と似ています。だから,その違いを考察したかったのですが,まだそこに至るには深まることができませんでした。
 ただ,何が起こっているかを解説するには,各ステージの意味も含めて用意周到に組まれたパッケージだということがわかります。自分の臨床がその中のつまみ食いの寄せ集めなのですが,それこそブリーフだからいいじゃないかとも言えるし,一度でもスリップすることが犯罪につながるのなら,その用意周到も見習うべきかとブリーフからゴリゴリにやってみるのもいいなと思ったことです。必要に応じて色々と。

 私はブリーフの学会に行った後や中島先生のWSを受けた後は,臨床のゴリゴリ感はますます減って優しくなれます。

gestaltgeseltz on 2012/08/27 2012-08-27 10:21

>OKAJIMAさん
ホッとするやスーッとする感覚をもよおすのはレスポンデント学習ですが、以上でも以下でもなく消去つまり新たな学習が起こっているのだと思います。そこに阻止とかは無用の概念かと思いますよ。
印象では取り立てて用意周到な部分というのはなく、普通に自発的回復に備えているという感じでした。

naga on 2012/08/27 2012-08-27 13:36

そうなのですよねー。特定の技法の学会ではないんですよねぇ。だから居心地が気楽なんですが。
会員調査(複数回答)でも回答者の7割くらいの会員が使っているのはSFAですがそれ以外にもみんな色々折衷して組み合わせて使っていることが分かっていて、要は「臨床上手になりたい」だけの団体なのかなぁと思っています。それで良いかな―と。友人から「ブリーフサイコセラピーの定義をちゃんとしてない」と言われるけど、MRIとかの「ブリーフセラピー」とかだけではない部分がごっちゃになっててこの学会の面白さだからなぁ、と思うとなかなか悩ましい問題なんだろうなぁと。
条件反射のは聴きたかったです。裏で会議があったので出られませんでしたがやっぱり面白そうですね。

来年の東京大会も宜しかったらぜひどうぞ〜。

gestaltgeseltz on 2012/09/07 2012-09-07 07:26

>nagaさん
普段行ってる学会には臨床上手な人がいないので、面白かったです。
まあ、門外漢から見るとまとまってるように見えて、中では意外とごちゃごちゃしてるのかもしれないけど・・・
東京大会は衣装迷っちゃいますね・・・

Mieko Ota on 2015/07/26 2015-07-26 23:20

AILAの学会に参加された先生は、開催場所によって日本的に信頼できる礼儀正さが異なる、特にアメリカに行った際は挨拶もなく、レセプションの始まりも終わりも分からず、戸惑ったという感想がありました。言語学でいえば、認知療法は認知言語学で、行動療法はアクションリサーチに該当するのかと思うのですが、英国は言葉に、アメリカは非言語のボディに、人種や文化の差異から力点が違うのかもしれません。私達の基本的生活、衣食住の服装は、英国のパーティなどでは必ずドレスコードが明記してあり、その差を感じます。カルフォルニアの女子学生に辞書の研究に携わって貰ったら、期待していた結果がでず、UCLに留学した日本人女性研究者の方が役に立ったという蔭の声もありました。どちらにしても、一度で効果が出なければ、医者にかかった意味がない患者と同じという点では、共通点かなと思いました。

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