2011/01/18: ACTを批判する 〜その1

アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT:アクト)は、新世代の認知行動療法(第三世代の行動療法)の代表的な療法の一つと称しています。

あまりACTの事が判っていないので恐縮ですが、ちょっと面白そうなのであれこれ批判してみようと思います。
というのは、ACTの人たちは、ほとんどCBTの事を知らずに批判しているようだからです。これはおそらく意趣返し返し返しのようなものだと思います。

ひょっとしたらシリーズものにするかもしれないので、その1としました。

おそらく私が思いつくぐらいですから、どこでも聞かれる内容だとは思いますが、本や研修で見聞きすることに触れて、あれこれ思ったよしなしごとです。

批判は[タイトル]と、それ以下の説明に分かれています。


[ACT:あくと、えーしーてぃーという省略語がありすぎる]
まず、「ACT」という単語をグーグルで検索すると、約499,000,000件ヒットします。
そこに検索クエリで「-アクセプタンス -acceptance」を加えると、約 826,000,000 件ヒットします。

これは何が言いたいかというと、弁別刺激として意味をなさないということです。

さらにまずことに、ACT(Assertive Community Treatment:長期入院や頻回入院を余儀なくされていた重症精神障害者支援のための集中型・包括型ケースマネジメント・プログラム)のような、明らかに似たような対象者に対する介入の在り方としてのACTもあります。

wikipediaの多言語でも調べてみましたが、やはり同様にかぶりまくっていました。


[奇妙な弁別訓練と無理やりな力技]
認知(いわゆる内潜的行動)をACTでは、「ルール」と呼んでみたり、「体験の回避」と呼んでみたり、「価値」と呼んでみたり、あれこれ区別しようと試みています。
なお悪いことに区別の根拠は治療者の主観、つまり認知です。

「その行動はルールに基づいてマズイから、真にあなたの価値に基づいた行動を取りましょう」というように、言い方は悪いですが、治療者の主観に基づく弁別と、治療者のルールによって患者を支配・調伏することが基本的にACTのセラピーなので、まさしく森田療法的な前時代感があります。

例えば「それはただの言葉に過ぎない」という言い回しがよく使われます。
これは「あなたの言っていることはただの言葉に過ぎないことを私は知っている。あなたはまだそれに気が付いていないので、早く気が付きなさい」という、治療者から患者への上から目線のアドバイスです。

「もうアドバイスの類は止めよう」というのが認知療法で言うところの「正しい認知の押しつけではなく、認知というものの扱い方を患者さんがあみ出していく」という姿勢だったのですが、そこに至った歴史は素通りしています。

これはおそらくACTが前身と呼んでいるABAにおいて、スキナーボックスに入れたネズミと実験者という、2者の力関係の極端なアンバランスに端を発しているかもしれません。

実験者はネズミの環境をほとんど全知全能レベルで操作可能です。
冷やすことも温めることも、電撃を食らわすこともレバーを増やすことも、つがいを入れることも溺れさすことも、自由自在です。

一応精神科医療においても治療者と患者には深くて暗い力関係の溝があるのですが、まあ上記ほどはない(はず)です。


[繰り返されるお仕着せなメタファー]
ACTにはごちゃごちゃと色々なメタファーだのエクセサイズだのがありますが、それらは「言ってもわからん患者に、体験させてある一定の結論に達せさせる」という、前述の上から目線から来ており、しかも正直に言って引き出しの中身が薄っぺらいです。

私も個人的には、カウンセリングでたとえ話などをする方ですが、ACTの本に書いてあるメタファーは、文化差かもしれませんし、笑いのツボが違うのかもしれませんが、正直使える感じがしないです。

誰かがあれを暗記して、字義どおり患者さんに述べているかと思うとぞっとします。メタファーなのに暗記って・・・

簡単にメタファーについて書くと、メタファーやたとえ話は目の前の人のヒストリーや価値に合わせて毎回自然と生成されるものです。
治療者側に事前に存在する、暗記された物語の押しつけではありません。

例えばある人に1度使ったメタファーを、再び別の人に使うようでは、その治療者にメタファーを生成する才能も使用する能力も無いです。

例えば、先日の行動療法学会中級研修会の発表で「時を巻き戻す」メタファーを使いましたが、これまでのカウンセリングでそのメタファーを使ったこともなければ、今後のカウンセリングで使う予定もありません。

つまりメタファーとは、基本目の前の人に、一回限りのものです。
ACTの人たちが同じメタファーを繰り返し違う人に使っているとしたら、それはすなわち目の前の人に言っているのではなくて、お地蔵さんに向かってお題目を唱えているのと一緒です。

[エクセサイズの貧弱な機能]
そもそもACTの人たちがどうしてエクセサイズを行うかを問うと、「言語教示にしてしまっては新たなルールが形成されるので、言葉で伝える代わりに体験をさせるのだ」と答えます。
はっきり言って意味が分からないというか、「エクセサイズを通じれば新たなルールは形成されない」という証拠もなければ、「言語を使うと必ず新たなルールが形成される。かつ、それは改善に結びつかない」という証拠もありません。

実際「困りごとを取り扱おうとするあらゆる面接では、必ず新たなルールが形成される」のです。比喩を使おうが、エクセサイズをしようが、言葉を使おうが、そんなこだわりは本当に奇妙です。
おそらく、それらはACTをする人たちのルール支配に過ぎないので、そのルールに気が付いて逃れることができれば、もう少し柔軟にセラピーができるはずです。

もう少し踏み込んで言えば、セラピスト自体がACTのルールにがんじがらめ過ぎて、セラピーや目の前の人を体験できていないという、構造上の致命的な欠陥を常にはらんでいると思います。


[モニタリングしない、できない]
これが最も致命的な欠点だと思います。
要するに、CBTにおける治療とは、モニタリングがまずあって、介入があって、モニタリングがあって・・・という連綿と続くプロセスなのであって、モニタリングしない・できないことを扱うのは、治療としてまずありえません。
これはACTかぶれというか、ABA気取りというか、本当によくわからないセラピストが侵す過ちの中で、最もまずいことです。

スーパーバイズをしていて、バイジーが三項随伴性もどきのような変なモデルを書き出してケース発表しているので、なんじゃこりゃと思って、「累積度数を出してみて」と言っても、「そもそもクライアントに観察を求めていないのでデータがありません」みたいなことを返されることは結構あります。

認知療法はベックが開始しましたが、その発端でカウンセリングにおける言葉の累積記録を取っています。その記録に基づいて「ネガティブな認知」を扱おうという結論に当時達したわけです。
(ベック自体は抑うつと怒りの関係について拾いたかったためにデータを取ったのですが、客観的な言語データに基づくと「抑うつと怒りが関係しているとは言えない」となったので、自説を曲げたのです。)

いずれにせよ観察していないものについて、変わったとも変わらないとも、治ったとも治らないとも、述べることはできません。


どうしてそんな間違いが起こっているのかと想像すると、なんとなくですが、ACTの人たちが、精神障害圏の方々の言語というものをつぶさに観察して記述していないからだろうなと思います。

彼らが言語を観察していたとすれば、それは自閉症圏の方々の言語形成においてであり、それを無根拠・無批判に精神障害圏に応用されるのは違和感があります。
(そういう意味ではACTのもつセラピスト/クライアント関係は、実験者とラットほどではないにせよ、どこかしら健常者のセラピスト/自閉症者のクライアント関係に似ています)


[線形と非線形について]
ここからさらに述べることは、不勉強の中の不勉強なので、少し詳しい人に教えてほしいと思いながら書きます。
言葉によるコミュニケーションは、ある一定の次元まで(大胆に言えば自閉症の方に言語を教える際など)は線形科学の範疇内で、何も問題が発生しない(予測の精度が悪くない)のだろうと思う。

しかし一定の次元を超える・・・というより普通思考や言語によるコミュニケーションは、非線形の科学の範疇内であり、ある特定の次元で正しかったと確認された線形的法則を用いたところで、無限に積もるわずかな誤差が予測の精度を全く低めてしまうという事態が発生するのだと思う。

予測の精度が低いとは、臨床においては「変わらない・治らない」ということを指す。

悲しいかな、ACTはそこそこ使える技法が、そこそこ以上使える技法ではない。
例えて言えば、ブリーフセラピーにおける「外在化」という技法と「ミラクルクエスチョン」という技法を、かなりこだわってへたくそにした感じ。

何より発想や関係性が前時代的すぎる。

それがACTに対する今のところの感想です。


この先ACTは「ACTそのものが、なにがしかのメタファーみたいなものだったんだろうな」と精神疾患治療コミュニティーの中心からは消えていきつつ、その隣接コミュニティーである看護の世界とか、教師の世界とか、文学の世界などにそのすそ野を広げていくことになるでしょう。

そしてその時は、何か別のセラピーがきっと第4世代を名乗っていることでしょうw


下のは久々の参考文献

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投稿者: 西川公平
2011-01-18 21:11
カテゴリー: テクニック

Comments

Pomta on 2011/02/08 2011-02-08 00:02

ただの愚痴なんですが…私のように心理臨床を勉強中の身にとっては、ACTのようなモノが出てくると正直厄介です。
ACTからみれば、認知の検討なんて体験の回避の最たるもので、苦痛の源でしょう。いったい何が治療的で何が反治療的なのか…。頭がこんがらがります。認知療法に適した人もいれば、ACTが合う人もいるということも当然考えられることですが。技法の折衷をよしとしないACTと、認知療法の両方を支持する先生がいるという状況に至っては、訳がわかりません。

1点疑問があるのですが、私の印象(理解はできなかったので)では、CBTでいう「モニタリング」はACTでは治療の阻害要因と見なされると思います。だから、モニタリングしない・できない、なんですよね?ただ、
>観察していないものについて……治ったとも治らないとも、述べることはできません
臨床では、介入前・後・フォローアップに、客観的な指標で効果を測定するだけではいけないんでしょうか?
たとえば、抑うつ得点が上がったとか、下がったとか、維持できたとか。
定期的なモニタリングは不可欠なんでしょうか?

gestaltgeseltz on 2011/02/08 2011-02-08 23:33

>Pomtaさん
簡単に言えばACTというのはABAから来てますし、それは一神教のようなものです。
認知療法は逆にアニミズム的なもので、あれもこれも信じています。

>定期的なモニタリングは不可欠なんでしょうか?
認知行動療法の臨床において定期的なモニタリングは不可欠です。
介入前・後・フォローアップに、客観的な指標で効果を測定するだけでもいいですが、それよりなおオンデマンドなというか、本人の日常生活に基づいたモニタリングが必要です。

具体的に強迫性障害で言えば、前者はY-BOCSのような指標でしょうし、後者は「手洗いの回数」のようなもので、CBTにおいて絶対必要なのは後者の方です。

Pomta on 2011/02/10 2011-02-10 13:54

CBTでは、セルフモニタリング自体に認知や行動の修正、治療効果を見出しているということですかね?

だとすれば、なおさらACTとCBTは相容れないでしょうし、そういう両立し得ないモデル・技法が「認知行動療法」とひとくくりに呼ばれるのはややこしいですね。「第2世代」だとか「第3世代」だとか、昔のケータイみたいな形容詞がついていたとしても。

「その2」も期待しております。批判を通じて、物事がよくわかるというのはよくあることなので。

あと、コメント欄を「西川先生に質問するスレ」化して、すみません。

gestaltgeseltz on 2011/02/11 2011-02-11 03:20

>Pomtaさん
セルフモニタリングはCBTにおいて、認知や行動をマシにしていくうえで最も素晴らしい治療技法です。
適切なセルフモニタリングが設定された時点で、軽い困りごとは即座に解決します。

しかし、ACTのみならず、CBTの中には相矛盾する仮説やモデルや技法が複数含まれています。

例えば上記のモニタリングですが、時と場合によっては、よろしくない事態もありえます。何をどう数えるのが治療の勾配をいい感じにしてくれるのかの見極めは重要かと思います。

http://cbtcenter.jp/blog/?i...

その2は・・・・、あるのだろうか?

この記事は私のブログにしては珍しく、意外と反響があるのですが、すべて口頭またはメールです。
コメントされるのはPomtaさんだけなので、皆ビビってるのかもしれないですw

Pomta on 2011/02/11 2011-02-11 12:41

>西川先生

本当は、知識のある方にこそコメントして頂いて、西川先生とのやり取りを拝見したいところですが。

Pomta on 2011/02/15 2011-02-15 13:12

またまた私のコメントです。すみません。

このブログをきっかけに(「批判」がきっかけとなり…)ACTを自分なりに勉強し始めました。
私はCBTが技法のパッケージであり、理論的な一貫性がないことに、何となくもどかしさも感じるんです。その点、西川先生は一神教と喩えられましたが、行動も認知をも対象にできる一大理論があって、その臨床的応用がACTなのだとしたら、何だか壮大な気分にさせられます。
ただ、先生が指摘された行動分析学で認知を扱うことの限界(私はそう受け取りましたが、そういう意図で仰ったのではないのでしょうか?)もなるほどと思いましたし、また、ACTの理論と実際の技法との間につながりが乏しいというか、その技法を選ぶことの必然性・妥当性があまり感じられないという印象もあります。
例えば、ABAでは理論に照らし合わせて、技法がなるほどなぁとしっくりくるんです。

先生は理論と技法の関係という意味では、ACTをどう見ておられますか?もし、それほど関心がないのに、ACTネタを引っぱっていたらごめんなさい…。

gestaltgeseltz on 2011/02/15 2011-02-15 14:08

>Pomtaさん

たびたびコメントをありがとうございます。あまりコメントのないヒマなブログなので、今後ともぜひ色々書き込んでください。

私は理論と技法の関係と言われると、なんとなく抗躁薬の開発秘話を思い出します。

完全に間違った理論に基づき、完全に間違った薬効成分を含んだ、完全に間違った薬が最初の抗躁薬ですが、よく効きました。
後で調べたら薬を混ぜ固めるのに使った成分に抗躁作用があったからです。

ACTの理論は他のCBTの理論と同じく大して正しくないと思いますが、技法はそこそこ使える場合もあるというのが、私の見解です。

>行動も認知をも対象にできる一大理論があって、その臨床的応用がACTなのだとしたら、何だか壮大な気分になる
ACTで目の前の患者さんがそれほど良くならないのさえ無視できれば、その壮大な気分もキープし続けられると思います。
つまり、臨床さえしなければ「体験を回避」できて、「言葉の世界に浸って」おれます。

Pomta on 2011/02/15 2011-02-15 15:18

>西川先生

>ACTの理論は他のCBTの理論と同じく大して正しくない
いい言葉ですね。心理的な柔軟性というのは、こういう姿勢を指すのではないでしょうか。

後半は手厳しい。現実の世界にあって、美しい理論というのはなかなか成らないものですね。

gestaltgeseltz on 2011/02/15 2011-02-15 17:20

>Pomtaさん
目の前のクライアントと一緒に作り上げた、オンデマンドの理論なり、メタファーなり、コラムなり、エクセサイズなり、モニタリングは、それぞれに簡潔かつ合理的で、実に美しいですよ。

一緒にすることと、合わせることと、美しさしか整合性はないですけど。

kk on 2011/02/27 2011-02-27 11:31

そんな、感情的に非難してもしょうがないでしょ。それこそ“マインドに乗っ取られて”いるように見えますよ。

gestaltgeseltz on 2011/02/27 2011-02-27 11:37

>KKさん
「マインドに乗っ取られる」というのは、カウントできないので、CBTでは扱いません。
認知の歪みというラベルをマインドに乗っ取られるというラベルに換えるのって、誰得なんでしょうね。

kk on 2011/02/27 2011-02-27 11:50

そうCBT,CBT・・てこだわらないでね。こういうこだわりから宗教が発生するのかなあ。
すこし、自身のこころの観察をされたほうが・・・。そうそうトリプル絡むとやらで。

gestaltgeseltz on 2011/02/27 2011-02-27 12:12

>KKさん
CBTセンターがCBTにこだわらないわけにはいかないですね

Functional assertiveness on 2011/02/27 2011-02-27 23:54

>目の前のクライアントと一緒に作り上げた、オンデマンドの理論なり、メタファーなり、コラムなり、エクセサイズなり、モニタリングは、それぞれに簡潔かつ合理的で、実に美しいですよ。

Functional assertiveness on 2011/02/28 2011-02-28 00:12

>ACTの理論は他のCBTの理論と同じく大して正しくないと思いますが、技法はそこそこ使える場合もあるというのが、私の見解です

ACTに関しては特に,「理論の正しさ」とは,その理論の有用性で評価すべきだと思います。
「役立つ理論ほど,より正しい理論」ということです。

ですから,もしACTの理論が余り役に立たない理論だとしたら
その時は,ACTの理論の在り方については,よくよく見直す必要があると思います。

ただし,「理論」という「道具」が役立たないと思えるときでも,
「道具が正しい場面で適切に使えていない」場合も勿論ありますから,
ACT理論の有用性の評価は慎重におこなう必要がありそうですね。

結局は道具なわけですから,使いにくければCBTの理論といった
別の道具をつかうのは自然なことだと私は思います。

gestaltgeseltz on 2011/02/28 2011-02-28 09:04

>Functional assertivenessさん
>ACTに関しては特に,「理論の正しさ」とは,その理論の有用性で評価すべき
>結局は道具なわけですから,使いにくければCBTの理論といった
>別の道具をつかうのは自然なことだと私は思います。

1、理論は理論、技法は技法ですから、ACTであれCBTであれ後者をより正しく運用し状況に応じて工夫することは当然だと思います。しかし、たいてい前者に引きずられた後者上の工夫をしがちで、ACTにおいてはなおさらです。
2、上記と同じですが、ACTの理論は排他的なので、CBTの諸理論と合わせづらいです。CBTの理論はコンパクトな分、バッテリーが組みやすいのです。

>ACT理論の有用性の評価は慎重におこなう必要がある
目の前の困っている患者さんに対して、効かないACTの技法を矯めつ眇めつ慎重にするのは身勝手で迷惑な話であって、1,2回やって効かなかったらポイッと捨てて違うやり方を試すべきではないでしょうか?

>ACTの理論が余り役に立たない理論だとしたら
>その時は,ACTの理論の在り方については,よくよく見直す必要がある
今のところ全面的に役に立つようなものではないですから、全面的にふるまうことを見直すのが良いと思います

Functional assertiveness on 2011/02/28 2011-02-28 11:39

> gestaltgeseltzさん

少しづつですがコメントしますね。

> ACTの理論は排他的なので、CBTの諸理論と合わせづらいです。
> CBTの理論はコンパクトな分、バッテリーが組みやすいのです。

抽象的な話ですが,
ACTの理論が取っ付きにくいことや「第3世代」という言葉で他との違いを押し出そうとする結果,排他的に受け取られることは十分あると思いますが,CBTを排除するものでは当然ないと思います。
ACTはCBTの技法も認めますし,ゲシュタルト療法やフォーカッシング(私はよく知りませんが)の技法も認めますよ。特に家族療法は相性がいいと思いますし。
強いて言えば,排他というよりお互いに相いれない部分があるということではないでしょうか。

CBTの理論が,ACTよりコンパクトなのかは分かりません。
例えば,仮説構成概念を複雑に組み合わせた理論ならば,
複雑になりますし,用語の混乱を除けばACTの骨組みは
シンプルなんじゃないかと私は思います。

またコメントするかもしれません。

Pomta on 2011/02/28 2011-02-28 12:54

色んなご意見が出てきて、楽しく読ませて頂いています。

理論はともかく技法の有用性とは、とどのつまり治るか治らないかですよね?単純すぎますかね…。
ACTのエビデンスはどうなんでしょう? 私が見た限りでは、出だしは好調、治療期間の短縮が売りかなという感じがしたんですが。「何でも最初は良く言われるものだ」とACTの先生ご自身が書いておられましたけど…。

gestaltgeseltz on 2011/03/01 2011-03-01 18:26

>Functional assertivenessさん
コメントぜひお待ちしています。

>ACTはCBTの技法も,ゲシュタルト療法やフォーカッシングの技法も認めます
認めているというより、他の療法を知っている気配がないです。
いくつかエクセサイズを剽窃している節はありますが、技法を剽窃することを「認める」とは言わないですね。
特にACTの方々がCBTについてあまり知らずに批評やコメントしている姿は滑稽ですらあります。
ついでに言えば、ACTばっかりやっている人は、実はABAについてもあんまり知らないんじゃないかと思うことさえあります。

>ACTの骨組みはシンプル
シンプルな骨組みに大きな風呂敷を載せているので、モビットのCMで竹中直人がしているネクタイのように、バランスの悪さが目立つのです。

>Pomtaさん
>ACTのエビデンスはどうなんでしょう?
さっきちょろっとBMJに行ってみてきたところ、ACTに関する記述はありませんでした。
そもそもABAが自閉症以外にはエビデンス的に推奨できるレベルではないので、致し方ないのかもしれませんが・・・

多分ABAという体系はエビデンスと相性が良くないので、その孫であるACTもあんまり相性良くないのではないかと想像しています。

WCBCT in Bostonの記事で小堀さんが書いておられるように、世界的にはすでに廃れつつあるのかもしれませんね。
http://cbtuk.blogspot.com/2...

Functional assertiveness on 2011/03/01 2011-03-01 21:19

>gestaltgeseltzさん

> 認めているというより、他の療法を知っている気配がないです。
Hayesのかなり古い論文では,家族療法家について引用したりもしています。
ベックやエリスのやり方を行動分析的に解釈した論文があり,
現在のACTの核になる話が書かれています。

つまり,他の療法を知らないということはなさそうです。
> ついでに言えば、ACTばっかりやっている人は、実はABAについてもあんまり知らないんじゃないかと思うことさえあります

これはちょっと残念なことですね。
遠回りに見えてもABAを学ぶことはむしろ正しくACTを理解するための近道だと思います。
> 多分ABAという体系はエビデンスと相性が良くないので

これは誤解ですね。
クライエントにとって十分な効果が実証されてきたことでABAは発展してきた訳ですから。
> Pomtaさん
> ACTのエビデンスはどうなんでしょう? 私が見た限りでは、出だしは好調、治療期間の短縮が売りかなという感じがしたんですが。「何でも最初は良く言われるものだ」とACTの先生ご自身が書いておられましたけど…。

本格的なエビデンスの評価はこれからが勝負だと思います。
また治療期間の短縮というよりは,もっとじんわり効いてくるというデータもあります。
売り出し方が派手すぎて,大風呂敷敷いた割にどうなんだ,という反応はいたしかたないかもしれませんね。

評価については,APAのエビデンスのリストをご覧になってください。
http://www.psychology.sunys...

Pomta on 2011/03/02 2011-03-02 22:13

>Functional assertivenessさん

いくつかお伺いしたいことがあるのですが、ご回答頂けますか?
1.ACTのエッセンスは、不快な思考・感情への馴化ではないかと思うのですが、この見方は間違いですか?
2.ACTとABAは連続性を持つものなのでしょうか?ACTは関係フレーム理論のみに依拠しているように私には見え、ABAとのつながりがピンと来ません。例えば、他の学習理論はどのような形でACTの理論や技法の中に受け継がれているのでしょうか?

次の質問は西川先生にもお尋ねしたいのですが、ACTのエクササイズはCBTにも含まれうるものですよね?しかし、逆にCBTの技法のかなりの部分をACTは認めないように思います。
認知の修正やCBT的なセルフモニタリングは、ACTからみると、やってはいけないことになってしまうんでしょうか?

gestaltgeseltz on 2011/03/06 2011-03-06 10:18

>Functional assertivenessさん
”エビデンス”という言葉がさすものがお互い違っているかもしれませんね。
このブログにおいては、BMJに載っているRCTを中心とするものエビデンスと呼んでいます。
提示して頂いたものについては、批判に耐えうるものなのか、ゆっくり見させてもらいます。

もう少し違った表現をすれば、ABAの偶像崇拝禁止令(仮説モデルを無駄に作らない)が、エビデンスレベルを高めるためには邪魔をしているのではないかと思います。

>ABAを学ぶことはむしろ正しくACTを理解するための近道だ
ACTを学ぶことが、正しくABAを学ぶことにならない気がしています。
むしろABAだけ学んだ方がいいような・・・。

>Pomtaさん
私は箱庭を使って認知再構成をしたことがあるぐらいなので、エクセサイズを使ってレスポンデント消去を行うことぐらいは訳ないです。
しかしそれをして、含まれるとか、含まれないとかなるかについては、ちょっとわかりません。

>認知の修正やCBT的なセルフモニタリングは、ACTからみると、やってはいけない?
いわゆる”私的事象”と呼ばれるものについて、”扱わない”以外の扱い方をACTでは奨励していません。
しかし、”考えない”と考えているのに似て、”扱わない”というのは、当然ある一つの扱い方なので、結局中途半端に扱ってます。

扱わないことに関して言えば、CBTのPM法やポジティブデータログなどの方が、純粋に扱っていないと言えるでしょう。

Cちゃん on 2016/05/04 2016-05-04 20:03

関係フレーム理論を調べていて、偶然立ち寄りました。

私は発達関係の仕事をしていて、技法のメインはABAです。それで、関係フレーム理論の事を知り、内容を知ろうとして、とりあえず、ネットで探して読んでおり、その理論からACTが派生したというのを知った段階なので、ACTについて何も知らないのですが、

ACTやABAがモニタリング(実際に何を指して仰ったか分かりませんが)をしないと言うのは、違和感がありました。もちろん、ACTのことは知らないので、ABAについてですが。
そもそも、介入効果は論文レベルでは何かしらの検査などを取って測っていますし、IEPなどで行動の変化についてのグラフを出したりすることは、あることです。そもそも、「強化」の定義を思い出してもらいたいのですが、強化は「その後に」行動が増えたかどうかで判断するものです。その為、関わりながら強化したつもり(もちろん、観察していて強化子は選定していますので強化できる可能性の高いものを選択している)で、その後の行動の変化は参照しているはずです。

それと、批判的に聞こえるかもしれないですが、客観的に観察できない仮説構成体を仮定するのは、それこそ>>gestaltgeseltzさんが言った抗躁薬の秘話(ここで初めて知りました)に似ているように思います。それこそ何が起きているか分からないし、一歩間違えば予測可能性がないからです。

エビデンスのことばかりおっしゃられていますが、仮説構成体を用いることがエビデンスの邪魔になっているのではないかと感じています(CBTの事は表面的にしか何も知りませんが)。というのも、精神分析の理論を思い出させるからです。確かめようもないし、役に立つ仮説レベルではいいのでしょうし、時々有効であるのも事実です。でも、なんか納得いかない感じがしています。
それに、最近、エビデンスについての考え方が、私の中で変わったのですが、療育の効果に関して、ESDMの研修を受けた際に、エビデンスのある療育vsエビデンスのない療育vs何もしない を比較したデータを見せてもらったのでうすが、エビデンスのない療育>何もしない と結果が出ていました。つまり、エビデンスが出たわけです。その結果をもって、「じゃぁ、児童発達支援事業として何をしてもいい!エビデンス出たし」と言うのは間違っているようにも思いました。アバウトな話ですが、上記の風に感じて納得いかなかったです。

まだまだ、勉強中で新米ですが、心理学という学問のこれからを考えたときに、「客観的」に「全ての人類」の心(行動の原因でもいいです)について矛盾なく説明できる理論が必要だと思います。その上で、個別論として各疾病や障害についての治療法があるべきだと思います。それが、まだまだ心理学には足りていない(というか存在が無い)ように思います。

駄文ですが、失礼しました。

gestaltgeseltz on 2016/05/07 2016-05-07 21:22

>Cちゃんさん

昔々ABAでは”強化は「その後に」行動が増えたかどうかで判断するもの”でしたが、昨今その屋台骨は崩れてる所もあるのかなと思って書いています。

またABAでエビデンスだと思っているものは、Evidence based medicineの指すエビデンスとは全然違うものだということを、ABAの人たちだけが判っていないという事です。

「矛盾なく説明できる理論」がCちゃんさん個人の納得やスッキリにとっては必要なんだと思いますが、私には特に必要ありませんし、ABA以外の人々にとっても興味関心が薄いところだと思います。
・エビデンスのない療育>何もしない と結果が出た。
分散分析して下位検定の結果が・・・とかそういう事なんでしょうか?
ABA:エビデンスのある療育
感覚統合:エビンデンスの無い療育
何もしない:何もしない
だと仮定して、「感覚統合すると何もしないより良い」と言えそうな結果が出たとしたら、それは、それなりに良い結果だと思いますよ。

「じゃぁ、児童発達支援事業として何をしてもいい!エビデンス出たし」という発想に至ることが、エビデンスが判ってないという事なんじゃないですかね?

いずれにせよ、ちゃんとデータを取り続けて結果を見続けることが大事な事で、理論整合性とかは、全くどうでもイイ事ですわ。
個人的にはずっと付け加わるデータを、ベイズ的に事後確率として出していけばよい話じゃないのかと思います。

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