2013/07/10: 認知再構成法について

認知再構成法は認知再体制化とも言いますが、Cognitive Restructuringの邦訳です。Restructuringを辞書で引くと、リストラ、改革、再構築、再編・・・とあります。大改造ビフォーアフターですね。
似たような似てないような言葉にリフレイミングというのがありますが、これは居抜き物件みたいなもので、建て替えたりはしません。日本家屋にちょっと手を加えたカフェみたいなものです。
まあその認知再構成法というのは結局のところどういうものなのかについて書いてみます。

探したら似たようなカテゴリーもありました。同じ事ばかり書いてますね・・・。


認知の歪みについて その2

認知の歪みについて その1
反証的思考について


まあまずよくあるのが、「認知の歪みを矯正する」という認知矯正みたいなニュアンスです。
これは源流の一つである論理療法なんかは「イラショナル!イラショナル!」って感じで勇ましくそういったノリなのですが、こーゆー側面は確かにあります。

割と司法などの矯正施設においてはこのノリが強いというか、たしかに対象の方が「短いスカート履いてる女性は皆レイプされたがっている」とかマジで思ってたりすると、うーんそこはちょっと矯正しておこうかな・・・って思わなくもないですが。

認知療法は「良くない考え(ネガティブ・シンキング)を良い考え(ポジティブ・シンキング)に変える」と巷で思われていますが、これもそういう流れをくむものです。

そもそも「ポジティブシンキングの方がいい」という常識的な発想があります。

「これまで***って考えててウジウジしていたけど、###って考えるようにして割り切ったら楽になった」みたいな体験もあります。

このように「悪い考えを良い考えに変えて楽になる」という事象はごく一般的なものです。


認知療法の認知再構成法はその類なのか?と言われると、半分Yesです。

まず半分のYesについて扱い、後にもう半分のNoについて扱います。


ところで考えにおける“良い”や“悪い“は誰のどのような判断なのでしょう。

法律やに照らしあわせた絶対的な良さ悪さというモノもあります。これは良さというより正しさです。
「盗むなかれ」や「殺すなかれ」はかなり絶対的なものです。
「お店にはたくさん物があるんだから私が一つぐらい盗んでも大丈夫」とかは、かなり悪い考えです。

世間一般の常識という曖昧なものに照らしあわせた相対的な良さ悪さというモノもあります。
良さというより、確からしさみたいなものですかね。
これは結構クセモノというか普通や常識を重んじる我々日本人にとっては、口論しているお互いが、お互いのことを「常識がない」とみなしています。
ある意味「常識的に・・・」というのは、我の意見が正しいということを修飾する枕詞として代表的なものだというのが常識です。
じゃあ、世間一般の常識というものは言葉の綾で本当は無いのか?と言われると、それはやはりざっくりとあるとしか言いようがありません。


認知再構成法において扱う認知とは、このような法的正しさや常識的確からしさとはちょっと違うものです。

認知療法における“良い”や“悪い“は、本人の”気楽・安心・都合いい“や”苦しい、怖い・不都合“などの主観的情動と関係するものです。
同じ事を逆に言えば、「本人がそう考えて苦しいのであればそれは悪い考え」で、「そう考えて安心するならそれは良い考え」ということになります。

法律や常識など、本人の外側にある(Objectiveな)正しさを扱うことと、内側にある(Subjectiveな)正しさを扱うことで、認知療法が扱うのは主に後者なのです。
前者と後者がバッティングしていたとしても、後者を優先することさえあります。

我々カウンセラーは、クライアントさんがなにか認知を提出したとして、それが正しいのか間違っているのか判断しようがありません。
セラピストは認知についてNOモノサシです。
もしその考えが本人の苦痛と結びついていたとしたら、「そう考えるのは不都合が多かろう」と類推できるに過ぎません。

認知再構成法では二種類のつつき方でそのような不都合そうな認知に相対します。

一つは、その不都合そうな認知をつついて、よりいっそう不都合な、ある意味不都合の極みみたいな認知まで分け入っていくという介入です。
認知というと、これはなんでも認知ですから、認知群と言ってもいいような感じでワサっとしています。
そもそもうつ病というのは認知がワサっとする病気ですし、精神科疾患全体的に認知はワサワサしてます。

不都合の極みについては、モノの本によるとHotな自動思考と書いてあったり、信念・スキーマと書いてあったり色々しますが、まあとにかく分け入っていく系のストロークです。

こういうのは、外科で言うと患部から病巣をキレイに露呈させるというような作業です。
トリミングと言ってもいいし、エクスポージャーと言ってもいいし、ターゲッティングと言ってもいいし、まあ、そーゆー感じの事柄です。

認知行動療法の良し悪しというのがあるとすれば、まさにこの露呈の良し悪しですが、露呈についてのトレーニングってあまり流行らない感じがします。
後述の露呈したものを扱うトレーニングの方が派手で教えやすいのかもしれません。

ただうまくいっていないセラピーは扱っても仕方ない所を無駄に扱い続けて、良くならないからと別のやり方に変えて、・・・とずっと空振りし続けているような悲しさがあります。

うまくいかない理由の一つに、本来対象者の主観を頼りに不都合な認知を探さなきゃいけない所を、治療者の主観で「この認知が歪んでる」と同定している間違いがあります。

カウンセリングはそもそも下賎な仕事ですが、なかでも他人の認知に正誤をつけるなんというのは厚かましいというか、はしたないことですね。

うまくいかない時は「扱い方」の良し悪しより、「扱う部位」の整合性を考え直してみたほうが良いかと思います。
どの部位を扱うと良いかは当然クライアントさんによるのですが、実際の所はセラピストが自分の趣味で部位を選んでいる様子です。

さて、もう一つは極まった不便の多い認知に相対して、アレコレ工夫をするという介入です。
この工夫には色々な技法の数だけ種類があって、その論理整合性について吟味するという論理療法っぽいものもあれば、拮抗するような考えと合わせて折衷的にしてバランスを取るというものもあれば、ただただその考えを発見しては流すというモノもあります。
まあ、どのような方法が良いかはクライアントさんによるのですが、実際の所はセラピストが自分の趣味で介入法を選んでいる様子です。


まとめると、認知療法の認知再構成法とは、クライアントさんにとって不都合をもたらすような認知群の中から、まさにこの認知という所にまで絞り込んでゆき、その認知に対してアレコレ工夫するという方法です。
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投稿者: 西川公平
2013-07-10 16:01
カテゴリー: テクニック

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