2007/06/14: 治療か害か② 

精神科デイケア時代の話

昔々あるところに精神科デイケアがありました。そこで働いていた頃の話を書いてみます。

デイケアには100人ぐらいが登録していて、そのうち毎日30人ぐらいが通院してきます。
参加して3ヶ月ぐらいで強く感じたのは「構造化されてない」という事です。
デイケアはカウンセリングなどと違い構造化されていないのが魅力でもあるんですが、あまりにも構造化されなさ過ぎ。ていうか、テキトウ過ぎると感じました。

3ヶ月目に入ったとき、先輩に1つプログラムを受け持つよう言われたので、それではということで調理のプログラムを選びました。

患者さんたちが調理する時、ちょくちょく質問してきます。なかでも不安障害圏の患者さん達は不安で何度も確認してきます。米を炊く時の水の量はこれで良いか?味噌汁に入れるにんじんの切り方はこれで良いか?etc.
前任者はその全てにきちんと解答していました。水の測り方を毎回伝え、食材の切り方のモデルを毎回示し、・・・と、毎回のプログラムごとに目まぐるしく患者さんたちの面倒を見て、かなり介入の多い調理プログラムになっていました。

一方、引き継いだ私は、何を聞かれても「ごめん。あんまり詳しくないんだ。**さんの良いようにやってくれたらいいよ。でも大丈夫。皆で作って皆で食べればそれだけで美味しいものになるよ」と、全く実の無い回答をすごい笑顔で続けたので、患者さんたちはちょっと慌ててました。
強迫性障害の患者さんは「少しでもいいから炊飯器を覗いて水の量を確認して」と食い下がりましたが、「ちょっとぐらい硬くても柔らかくても、気にしないから大丈夫」と笑顔で断り、そのままニコニコしながら調理室で参加者を見つづけけました。
それまで手取り足取りだった分、皆はすごく混乱したけれど、今までの指導の賜物か自分達で判断したり、相談したりしながら調理が進みました。

しかし、そうして出来上がった昼食は、とても美味しかったのです!やはり誰かに作ってもらえるのはおいしいですね!

プログラムの最後に今日の調理の感想を回すところで、私は「すごく美味しかったです。ご馳走様。このプログラムは美味しいものが食べられて幸せです」とだけ言いました。
しかし患者さんたちは
「『えらい人が調理担当になってしまった。何もしてくれない。どうしよう』と焦って、正直うらんだたけど、意外と何とかなった」
「調理ってそんなに難しくないと思った」
「自分らだけでも調理ができる事がわかった」
などと、驚きの感想が続出しました。中には
「私の担当した味噌汁のジャガイモがちょっと硬かったけど、まあいいかと思って楽しく食べれた」というものもありました。

その晩のミーティングでデイケアスタッフに「スタッフが何もしないのに、実は彼らは調理ができた事に強烈な印象を抱いた」と、言われました。というのも、当時のデイケアスタッフは全てのプログラムに過剰に思える指示・介入をひたすら続けていたからです。
スタッフの「デイケアメンバーはスタッフがいないと何も出来ない」という誤解が、メンバーの「我々はスタッフがいないと何も出来ない」という誤った信念に、ダイレクトに直結していました。ゆえにメンバーの驚きはスタッフの驚きでもありました。
これを皮切りにデイケアそのものの構造をスタッフ主導型からメンバー運営型に切り替えていきました。
最終的に調理プログラムは「どっちの料理ショー」を開くまでに至り、大変盛り上がりました。

今回作れたのは以前のスタッフの調理指導のおかげであることは間違いありません。あれこれ指示することで基本的な調理能力が得られていたのは間違いないです。
しかし同時に患者さんたちは長年調理のプログラムをしながら、「スタッフに指示・指導してもらわないと調理できない」、「調理は難しい」、「自分ひとりでは無理だ」という思わされてきたのです。つまり患者さんのセルフコントロール能力を簒奪し続けてきたのです。

時々医療福祉スタッフの中には「患者さんが決して失敗しないように」と細やかな気遣いで関わる人たちがいます。
患者さんの進行方向に小石1つ、傷1つあってはいけないと、完璧に掃き清めるその行為を、私は個人的に「カーリング」と呼んでいます。そしてそれは、実のところスタッフが失敗しないようにと不安なだけに過ぎないと思っています。

行動分析、行動療法、認知療法など、コントロールを握る療法を”間違って理解”していると、どうしても「こう介入したら上手くいった(Doモデル)」に着目しがちになり、患者さんに介入する事を「なにか働きかける事」に限定して、それ治療者の役割だと勘違いしてしまいます。
しかしその対として「余計な事さえしなければ上手くいった(Don'tモデル)」があります。
介入は薬にも毒にもなりますが、私にとって介入とは「薬にもなる毒」で、ベースは毒だと思い続けています。だからなるべく最小限の介入にしたいし、最短の時間で治って欲しいです。

コントロールを本人に返す事を前提とせずにコントロールを握る事は、危険な事ではないでしょうか?もし治療者のコントロールで良くなったのであれば、永遠に治療を続けるか、治療をやめて再発するかのどちらかになってしまうでしょう。
それゆえ私は構造化にまず重要なのはコントロールを手放していくプロセスことだと思います。

最後に誤解を招かないように付け加えると、「余計な事を何もしない」ことは、「放置する」こととは全く別物です。「『何もしない』をする」と言っても良いと思います。それはやってみればわかりますが、とても難しく、とても根性の要ることです。もしそれをして沢山介入するより楽だったとすれば、それは手を抜いているのだと思ってください。
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投稿者: 西川公平
2007-06-14 16:13
カテゴリー: 雑談

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