2007/06/14: 発達障害っぽい人々?

広汎性発達障害・・・or not

たかが心理カウンセラーが疾患名についてあれこれ述べるのも何なんですが、巷で流行りの「発達障害」を称する?類する?成人の人々が増えているという風潮についていろいろ思います。

例えば空気が読めないとか、対人関係になじめないとか、すぐ混乱するとか、世の中の常識とされている事に気が付いていないとか、etc.

色々な立場の人が色々な事を言うので混乱していますが、私自身は「発達障害」っぽいというのがあるにせよ、それらの成人期の人々を「広汎性発達障害」とする事に現時点でメリットは無いと思います。

これはどちらかというと、AC(AdultChildren)とか、大人のAD/HDとか、なんだかよくわからないけど生活の不便を抱えている感のある人が、なんらかその不便さをあるフォーマットに落とし込みたいのと似たようなもののではないかなと思います。

あるいは社会の方が「空気読めよ!」みたいな感じで、より一層文脈というものを重視する、文脈を読めないことを差別する世の中になってきたので、それが不得意な方が生きにくくなっているのかもしれません。

少しばかり素っ頓狂でも、天然でも、頓珍漢でも、そのぐらいはOKという社会の可塑性が失われてきているような気がします。

より一層と書きましたが、もともと日本人はミーティングで意見を思いついた時なども、「この発言を/私が/この場で/する事が、果たして全体としての時間空間的な一致をみる行動なのかどうか?」をひたすら気にして、黙り込んでしまうところのある民族だと思います。
自分の意見をガンガン言う事が尊ばれる文化圏ではなく、「和をもって尊としとし、逆らうことなき事を旨とせよ」なわけですから、「空気の読める・読めない」にとても敏感な文化圏なのかもしれません。

しかし当たり前ですが、空気は読めません。
誰が何を考えているか?、集団の意見の進行方向はどっちか?、自分の発言は周囲とフィットしてるか?それらは分かりようの無いことです。
芥川龍之介の「藪の中」にせよ、有吉佐和子の「悪女について」にせよ、人それぞれに見解は違うという事が書かれている読み物ですし、認知療法のベースも「世界は解釈されている」というところにあります。

それらの分かりようの無い「空気」の流れを読むことに熱心になりすぎたり、自分の発言を気にしすぎている時、確かに生活の不便が現れると思います。
しかしそれは広汎性発達障害などではなく、普通の「社会不安障害」です。

変であってはいけない社会というものは、とても退屈なものだと思います。
身体的に言っても5人に1人は小奇形があるのですから、考え方や振る舞いが「ちょっと変」でも、まあいいんじゃないですかね。
このエントリーをはてなブックマークに追加
投稿者: 西川公平
2007-06-14 17:55
カテゴリー: 広汎性発達障害

Comments

コメントはまだありません。

Add Comment

TrackBack

トラックバック

トラックバッックはありません。