06/14: 行動療法・応用行動分析の方々に

ちなみにこのブログは久野先生のブログの剽窃を元に、適当にオマージュして作りました。
本当は行動療法Love!ですが、久野先生を苦心して真似たことにより、毒舌になっています。
なんだかんだ言っても、ただの言葉遊びにすぎないわけですから大目に見てください。

行動療法・応用行動分析の方々が認知行動療法に批判を繰り返しているようなので、今日はその誤解を解きたくて筆を取ることにします。

 旧来の行動療法・応用行動分析と比較して、認知療法はより広範囲な障害に成果を上げています。行動療法なども一定範囲に成果を出していますが、それはいささか狭く、一般的かつ人口比率の高いコモンメンタルディスオーダーである「気分障害」、「不安障害」にそれほど成果が上がっていません。エビデンスベースドにその力を発揮すると言えるのは応用行動分析が発達障害のみ、行動療法が強迫性障害のみです。

 他のあらゆる心理療法と同じく、行動療法も現時点でどうふるまうかのコントロールではなく、適切な習慣を保持する技法であるとされていました。
 ところが、「適切な」「習慣」というものが「保持」されているという三つの事ですら、なかなか証明が難しい事柄です。
 もちろんすべての療法が「わたしのやり方はすばらしい」とうぬぼれているわけですから、不完全ながらも客観的な効果測定が出来上がるまでにずいぶん時間がかかりました。
 その結果上記のとおり、少なくとも発達障害と強迫性障害に対して有効だというエビデンスが得られています。つまり、それ以上の言説は誇大広告にすぎないのです。つまり彼らの自慢の学習理論は、あくまでエビデンスの適応範囲内での正しさであって、人間のそれ以外のあらゆる障害へのアプローチに対し、第一選択に適応されるべきものではありません。

 皇太子妃への従来の治療の行詰りが認知療法により打開されつつある所から、このところ認知行動療法への評価が高まりつつあるようですが、いわゆる行動療法の方々が、認知行動療法の名のもとに行動療法あるいは応用行動分析を進めておられるとすれば、とても恐ろしい気がしています。
 一般的な精神疾患に対して行動療法や応用行動分析を用いるのが最適であるという証拠は少ないのは、たとえ一次的な改善がみられてもそれが長期の改善の維持につながるかどうか不明だからです。

 応用行動分析家、行動療法家を標榜しておられる方々の多くは「応用行動分析・行動療法が科学である」という世迷い事を述べられています。何十年も前ならいざ知らず、あらゆる科学とは「パラダイム下における科学」であるというつつましやかさを持っている現在、「応用行動分析・行動療法が科学であるという条件下においてのみ、それらは科学である」としか言いようのないことです。そうであれば「精神分析が科学であるという条件下」においては精神分析は科学です。何の違いもありません。

 ちょうど精神科が耳触りのよいよう、猫も杓子も心療内科を標榜するように、行動療法家が認知行動療法を名乗ることが増えてきています。これは耳触り以外にも行動療法や応用行動分析の適応範囲の狭さや世間からの風当たりの強さに臨床場面で直面せざるを得ないので、仕方のないことなのです。
 しかし認知療法を学んでいない者が認知行動療法を名乗ることで、本来適応範囲でない気分障害などを引き受けることになり、認知行動療法の治療成績を落としていく危険性があります。行動療法家は認知療法の素人なのです。
 20年前には行動療法家であったり、応用行動分析家であったりしておられた方々がそうです。結局、わたしに言わせればそれらの療法の悪評や行詰りから、認知療法を導入したに過ぎないのです。業績目録をみますと、少ない持ちケースにコストパフォーマンスを度外視で税金や学費を投入し、無理やり論文を連ねているのです。

 認知行動療法はあくまでも認知行動療法であって、認知療法的行動療法や認知療法的応用行動分析であってはならないのです。軒を貸して母屋を取られるとの格言にあるように、軒を借りたた旅人が母屋を占拠した状態が今の認知行動療法なのです。
 母屋には母屋の伝統があり、少なくともその家屋に入り込むにはそれなりの礼儀が必要です。認知療法は本来うつ病の認知再構成に端を発した技法なのだから、その基礎理論として条件反射学や行動分析学などの学習理論が通用しないと考えるのが常識でしょう! 

 ところが中にはやれオペラント、やれレスポンデントと学習理論の適応範囲の限界をわきまえない人たちも、認知行動療法を名乗っておられるのです。
 先日も行動療法家に「どうして行動療法でうつ病はなおらないんですか?」と問いますと、平然として「気分障害の症状は学習ではないのだ」と答えるのです。それだと、もし治療が成功しなかったとき、「おもに症状は学習以外から来ていたので仕方がない」という言い訳が成り立ちます。脳生理学、脳神経学、精神薬理学、および脳の科学的測定による精神障害の理解が急速なスピードで進む現在、学習か否かという区別の明白性がなくなってきているのではないでしょうか?

 ところで認知再構成法は我々が馴染んだやり方である学校教育に近い方法をとっています。すなわち「書いて考え、書いて覚え、書いて訂正する」です。我々現代の人間はこれらの方法にとても慣れているので、それらのシェマを用いて治療に有益な影響を与えることができます。
 もともと学習理論においても「鳩はレバー押し学習を覚えづらく、ネズミはキーつつき学習を覚えづらい」という生得的な方向性が明らかになっています。
 認知療法が利用を試みているのは、生得的にこだわらず、治療開始の段階ですでにある「患者さんのこれまでの人生における学習の構え(シェマ)」であり、いかなる治療も、患者さんのこれまでの構えにのっとった形で提供されることが望ましいのです。
 その意味で紙に書きつつ自分の考えや行動を整理したり、変えたり、記憶したり、保持したりするということは、現代社会においてかなり普遍的で一般的な構えなのです。

 行動療法の入門書を読むと、外出恐怖のクライエントに街中に出るExposureを施行するに際し、その人がすぐさま自宅に逃げ帰ってしまうのを防ぐため、「セラピストがインストラクションとして、その場に留まるように教示せよ」と書いてあります。 これはいささかFunnyな記述で、前時代的なものだと言えるでしょう。すなわちセラピストの教示がクライエントにかなり強力に作用することが“前提”なのです。同様の記述は森田療法の中にも見受けられますが、これらはその時代通用したかもしれませんし、今も少数に通じるかもしれませんが、普遍的だとは思えません。
 今の学校教育を見て、教師がびしっと命令をして、生徒がハイとそれに従うという風景はどれほど残っているでしょうか?

 こんなことを仮にも認知行動療法家を名乗っておられる方々に解説しなければならないのは情けない話ですが、中には文脈(コンテクスト)の知識が乏しい方々が多いのです。

 たとえば、セラピストのいささか強い教示によって、クライエントが「外出という社会的刺激に自分を曝さない事にはセラピストとの関係に不都合が生じる」という別の不安を抱き、その日十分暴露したことで条件性の対人刺激が不安を誘発しなくなったとします。翌日、条件反射としての対人刺激に直面すると、不安の再発が生じるのです。そのときクライエントはどう考えるでしょうか?
「脅されて仕方なく暴露したが、やっぱりあれはその日だけのことだったんだ。治療は無意味だ」
 古き行動療法家の教示や教本には、そのようにいささか外発的な動機づけに頼っている風に見えるところがあります。もっと言えば、このクライエントが再び自発的に来談し、説明を求める前提に甘えています。
 クライエントに行動の動機付けをどのように内発的につけていくかに関する様々な工夫のレパートリーが認知療法の真骨頂なのです。

 さて、消去というのは一度学習したことを解除するような面持ちで語られたりしますが、脳生理学的には「新たな学習」であって、「先行学習―後行学習」のせめぎあいにすぎないのです。
 その辺りに誤解があるため、ウォルピは不安の消去とリラクセーションと連合させて、いわば弛緩反応の条件づけの必要性を提唱しましたが、これは結局最初の先行学習と後行学習に、さらにもう一重の先行―後行学習を加えただけで、手間だけ多い割に大して効果を上げなかったのです。これが“Exposure単体”VS“Exposure+筋弛緩訓練”のトライアルで筋弛緩の効果が認められなかった理由なのです。パニック障害の広場恐怖への治療などでは、筋弛緩を入れたほうが治療成績が悪いぐらいですし、コストパフォーマンスの点からも付け加えられるべきではありません。

 また、不安や恐怖にはおそらく学習を促進させる作用があるのではないかと言われています。後行の学習を早く形成したいときにはExposure最中における不安や恐怖がそれを助けてくれるのです。その観点からもカウンターコンディショニングというのは Exposureに不要な手続きなのです。
ただ不安なく暴露すればよいだけならBenzの治療成績はもっと良いはずですが、たとえばBenzを飲みながら生活すれば、予期不安はマシになりますが、広場恐怖やパニック発作の回数に変化はありません。

 一度や二度の脳への書き込みで長年の癖は修正されづらいので、本当に必要なのはExposureが治療にとって必要であることを、いかにクライエント自らが考え、納得し、確かめ、試行するかです。セラピストはバックアップするにすぎません。


 このブログを冗談で書きながら、認知行動療法に対する正確な知識を多少は持っていただけるのではなかろうかとの淡い希望を持ちつつ、大先生のブログをアジらせていただいています。 認知療法を非科学的だ、学習理論に基づいていないと批判する前に、行動療法・応用行動分析が自らを科学と妄信することに熱心なあまり、いかに古い科学哲学を信じているか、いかに評判の悪さを「誤解」という一言で開き直っているか、いかに古い治療者―患者関係を前提としているか、いかに適応範囲が狭いかを知って頂きたいのです。

 社会・文化構造と無関係の科学というものはほとんどなく、また臨床という現場は特にそのような社会・文化構造と大いに関係があるところですから、行動療法や応用行動分析がこの社会・文化構造の発展と合わせざるを得なくなったときに、必然的に認知行動療法になったのです。
 それは客観主義から相対主義への変化であって、行動療法のみならず、あらゆる何かの上に降り注いでいる構造主義的パラダイムシフトの一環ではないかと思います。
 最後に付け加えれば患者さんにとって必要なのは科学風味ではなく現象学的な蓋然性だけです。 もちろん行動療法の持つ科学風味が、あるある大事典に見る現代人の科学信奉という構えに良い影響を与える可能性はあるでしょう。
投稿者: 西川公平
2007-06-14 17:19
カテゴリー: 久野語録

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