2007/06/14: 自分のネガティブな思考を見つめるという事

ネガティブな思考へのエクスポージャー?

行動療法学会が終わって、菊池病院の原井先生や岡嶋先生とお茶をしていた時の話題で「うつ病に対する認知的なエクスポージャー」の話題が出た。
また原田先生の勉強会でも、フロアから内観療法の話がでて、「うつの方にかなりネガティブな内省などをさせる事がなぜ治療になるか」の質問があった。
井上先生の研修会でも「うつ病における思考の回避」について説を割いておられた。
短期間に偶然おそらく同じ事を取り扱った言説が連続したので、それについてまとめてみたい。

うつ病では事あるごとにネガティブな思考がいっぱい出てくるが、意外とそれは回避されている。精神分析ならおそらく「抑圧」と捉える事を、CBTでは「回避」と捉えている。
つまり「休職中にTVの前でゴロゴロしてても、特に何も考えてない。だからコラムなどに書く事が無い」というのは、言い換えれば「(仕事の事を)考えないようにしている」とも言える。
結局CBTをやろうとするとこれらの回避している考えに直面してもらう必要が有るから、それはけっこう苦しい体験で、一種の副作用になるのだと思っていた。
しかしそこにはどうやら「副作用」よりももう少し積極的で治療的な意味合いが存在するかも知れない。

そこで思考の回避をやめ、自分のネガティブな思考を見つめるという事のメリットを考えてみた
まずは「自分の中のネガティブな認知が気分や行動に影響を与えるシステム」について把握でき、そのシステムを修正するために取り扱う事ができるという事が大きい。休職中にひたすら思考の回避を行って復職したら元の木阿弥という事では、あまりにも休職というプロセスを受動的に過ごしている気がする。
しかしこの辺りは従来のうつ病に対する精神科医療の見解とバッティングするところでもあろうから、なかなか難しい。うつのフェイズがどこなのかで、CBTのフェイズをどう変えるべきかについては、はっきりしない。

さて、「考えないようにしている=回避」で、「ネガティブな思考を見つめる=エクスポージャー」だとすると、不安のエクスポージャーと重ねて考える上で類似点や相違点が思い浮かぶ。

例えば不安障害におけるエクスポージャーの作用機序は主に二つある。
1つは馴化や飽和で、エクスポージャーによって上昇した不安を、いつもの不安低減反応することなく時間の経過する事によって、非常に高水準の不安・恐怖を保ち続ける事が脳の生化学的に難しくなり、勝手に下がってくるというもの。
もう1つは予期不安と回避によって日頃のクセとして回避していた状況の場合。つまり実際は平気(最中の不安が高まらない)であるにもかかわらず、予期不安(事前の不安)と回避のみが症状なので、それらをやめれば症状は無くなる。ここには馴化や飽和の作用は無いが、そもそも現実の不安も無いので、「不便な癖が取れました」という話になる。

うつのネガティブな思考を見つめるという事は、どちらの作用機序だろうか?あるいは、全く違うのか?
まず前者の順化や飽和が存在するかどうかがわからない。とってもネガティブな事をひたすら考える事でネガティブな気分が生じたとして、そのまま考え続ける事でだんだん飽きてくるだろうか?

井上先生の説を推察するに「飽きてこない」。ゆえにそのようなネガティブな思考を見つめ続ける事はテキトウなところで切り上げて、柔軟で合理的な思考を模索する方にチェンジしていく必要があるそうです。しかしそのような「思考が気分に与える影響について実際体験する」事は重要なプロセスだそうです。

原井先生の説を推察するに「一過性である」。ゆえに気分のモニタリングのプロセスの中で、一時的にネガティブな側面をひたすら見つめることで強くネガティブな気分に陥ったとしても、次の日ないし数日が経過すると回復する。そのようなモニタリングを通じて思考が気分に与える影響について外在化する事は重要なプロセスだそうです。

かたや認知療法、かたや行動療法の先生が仰る事ですが、結構似ている気がします。
しかしそれだと不安の順化や飽和とは機序が違ってるかな。不安における飽和はもっと短い時間で起こるはずの出来事だし。

不安のもう1つの作用の方はどうだろう。
ネガティブな気分を誘発するようなネガティブな思考は、CBTのフォーマットにしたがって取り組むことさえできれば、意外と簡単に反論できたり、合理的に考えられたりする。
つまり「今まではネガティブな考えを思い浮かべないようにしたり、気を紛らわせ・気をそらせたり、ポジティブな事を考えようと頑張ってたけど、冷静それを取り扱ってみれば、自分の考えを変化させる事はそう難しくなかった」という事がある。

ネガティブな思考に対する回避または過剰な反発や拒絶が無くなり、まあまあそこそこ普通に見つめて、ある程度の反論ができたときに、自分のネガティブな思考を受けいれる事ができて、落ち着くんじゃ無いかと思う。
実はここには第三の作用機序があるような気がする。自らがネガティブな事を考える人間であり、時にネガティブな気分に陥る、へなちょこな人間である事を、完全に拒否せずある程度「受容」する事が、「ネガティブであってはならない」と頑張っている時に比べて格段に楽になる。これは不安であれ、ウツであれ共通な感じだ。これは流行の「弁証法」的かもしれない。

この辺りの感覚はなかなかまとまりづらく、説明しづらい。もう少し言語化に工夫をする必要があるなと思うんだけど、とりあえず書いてみてから適宜修正します。

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投稿者: 西川公平
2007-06-14 15:26
カテゴリー: テクニック

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